§ 「〇活から考える」1

『~人があり余るほど持っていても、そ

 

の人のいのちは財産にあるのではないか

 

らです。』(聖書 ルカ12章15節)

 

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 近年、新聞や雑誌の記事で、よく使用

 

され目にする言葉に『〇活』というもの

 

があります。

 

 就活(就職活動)、婚活(結婚活動)

 

など、『〇活』という言葉には、人生の

 

重大な事柄について、目的を持って活動

 

するという意味が込められています。

 

 

 その中でも、『終活』は、2012年

 

のユーキャン語・流行語大賞で、トッ

 

プテンのひとつに選出されました。

 

 『終活』とは「人生の終わりのための

 

活動」の略語です。

 

 具体的には、人生の最期を、よりよく

 

締めるための備として「エンディング

 

ノート」といわれる記録帳に、自分の人

 

生の思い出や、家族への感謝、延命治療

 

の要不要などについて書き記します。

 

 また他にも、葬儀の方法や、墓のこ

 

と、財産の分配仕方を記録すること

 

や、身辺整理を行うこと等があます。

 

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 日本では、『死』に関する事柄は、た

 

いていの場合、忌み嫌われるべきものと

 

して扱われ、考えないようにることが

 

一般的でした。

 

 しかし、平均寿命が延び、家族の在り

 

方も変わった果、自分が死ぬときのた

 

 

めに備えておこうと、このような活動が

 

行われているようです。

 

 

 しかし、そのような終活が行われてい

 

る一方で、死対して向き合い、とらえ

 

るあり方において、次のような意見を述

 

べていた医師がいました。

 

 

 それは、ある著名な作家が、高齢の医

 

師と対談したのことです。

 

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 その医師は、「最近目立っているの

 

が、高齢者の方勉強不足であること

 

だ。」と語り、続けて、「ただ、

 

は、のんきに暮らせばいいと考えている

 

高齢者の方が多い。また、驚くべきこと

 

に自分が死ぬとは思っていない人までい

 

る。政府が、もっと医療福祉に力を

 

ぎ、難病が治るような新薬が開発されれ

 

ば、まるで、死ななくても済むほど、長

 

生きできると漠然と考えている高齢者

 

方が、恐ろしく増えている。」とのこと

 

でした。

 

 その医師は、言葉を続けて、「しか

 

し、どんなに医設備が良くなっても、

 

必ず人は死ぬ。その基本的なことを認識

 

させるような勉強会が、高齢者の方には

 

なのだ・・。」と締め括られたそう

 

です。

 

 (月間DAY 2015年1月号)

 

 少し辛口のように聞こえますが、臨床

 

の現場で感じられた、率直な思いを、

 

その医師は、語ったのしょう。

 

 もっとも、ここで取り上げられている

 

高齢者の方のは、少々極端に聞こえる

 

かもしれませんが、たいていの人は、こ

 

こまでひどくなくても、多かれ少なか

 

れ、「自分は大丈夫。」という漠然とし

 

た根拠のない自信を持って過ごしている

 

のではないでしょうか?

 

 

 

〇 用意はしている・・?

 

 

  

 けれども、中には、終活を実践されて

 

て、このよに言われる方もおられる

 

でしょう。

 

 「私は、死後の準備をしている。エン

 

ディングノートもすでに書いているし、

 

その覚悟もできている。儀の為の資金

 

も用意してある・・・。」と。

 

 

 確かに、このような方は、自分の死に

 

向き合おうと力し、残された家族に迷

 

惑をかけまいと、生前にその準備をして

 

おられます。

 

 それは、ある意味、大変賢明な行動で

 

あると言えるしょう。

 

 

 しかし、よく考えてみますと、その備

 

えは、残され方々のための備えであっ

 

て、「自分が、死後どこに行くのか?」

 

という事についての備えではないの

 

です。

 

 

 では、備えるとは、どのような事なの

 

でしょうか。

 

 

 

『あなたの神に会う備えをせよ。』

 

   (聖書 アモス書4章12節)

 

 

 

「聖書」には、このように書かれてあり

 

ます。

 

 この言葉がいったい何を言っているの

 

か、次に取りげる実話から、考えてい

 

ただきたいのです。

 

 

 

〇 ある部族で・・・

 

  

 

 アフリカのある部族では、狩りに行く

 

ときに、木の棒を道ばたで拾い、それを

 

立て掛け、こう言うそうです。

 

 

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「神様、どうか今回の猟を成功させて

 

ください。もし、獲物が獲れましたら、

 

もう一度拝みにまいります。」と。

 

 それで猟に成功すれば、帰りにその棒

 

に、礼を言って拝みます。

 

 けれども、もし、何も獲れなかった場

 

合、彼は、その拝んでいた木の棒をへし

 

折り、投げ捨ててしまうというのです。

 

 

 何の根拠もないものを神として拝み、

 

それが人の都合で取り扱われているこの

 

行為を、あなたは、どのように思われた

 

でしょうか。

 

 

 おそらく、何かしらの疑問を感じた方

 

もいらっしゃることでしょう。 

 

 

 けれども、たくさんの人々が、実は、

 

これと同様のことを行っているのです。

 

 どんな根拠があるのかを知らずに、人

 

に言われるまま、「ご利益があるから・

 

・・」とか「先祖から続いているから・

 

・・」という理由だけで、石や木で造ら

 

れたもの(偶像)を拝み、その教えを、

 

なんとなく受け入れていることが多いの

 

です。

 

 

 

 浄土真宗を例にして考えてみま

 

しょう。

 

 

 

 この教えでは、「阿弥陀仏が、かつて

 

48の請願を立て、その請願をすべて成

 

就して仏になった。その請願のゆえに、

 

すべての者が救われる。」という教理

 

が、最も中心に置かれています。

 

 

 

 ここで最も大切なことは、「阿弥陀仏

 

は、本当に実在しているのかどうか?」

 

ということです。

 

 

 彼は「十五劫の昔は人間であった。」

 

と言いますが、それは、「648億年の

 

昔」ということになってしまいます。

 

 

 

 これは本当なのでしょうか。

 

 もし、本当の話でないならば、そこに

 

信頼を置くことはむなしいことにはなら

 

ないのでしょうか。

 

 

 私たちは、自分の財産など大切なもの

 

に関して、それがどのように取り扱われ

 

るか、損失しないかなど心を配ります。

 

 倒産寸前だと知りながら、そのような

 

銀行に自分の財産を預けるような人は、

 

まずいないでしょう。

 

 

 そうであるならば、それ以上に大切な

 

自分のたましいの永遠について、より深

 

く考えるべきではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 「〇活から考える」2へ続く→