§ 「エホバの証人の輸血拒否問題」を聖書から論じる

『エホバの証人輸血拒否について』聖書から論じる  

    

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 最近 ニュースで、エホバの証人の2世・3世の方が、

子どもの頃に親から受けた扱いについて詳しく報じられています。

 なかでも、エホバの証人である親が、子どもへの輸血を 

信仰上の理由において拒否したことで、子どもの命が失われた

事件については、以前から深刻な問題として論じられてきました。

 

 今回は、「エホバの証人の輸血拒否問題」について、

『聖書』が何と語っているのかを考えていきたいと思います。

(以下、引用する聖書の言葉は、

一般的なキリスト教会広く用いられている聖書:新改訳聖書第四版

 からのものになります。)

 

 

▶新約聖書の 使徒15章20節に『~血とを避けるように』

と記されています。

  旧約聖書にも、

あなたがたがどこに住んでいても世々守るべき、

永遠の掟はこれである。

あなたがたは、いかなる脂肪も血も食べてはならない。

(聖書レビ記3章17節)

と記されています。

 旧約聖書のなかには 他にも似たような箇所は複数個所あります。

 

▶しかし、これらの箇所には「食べてはならない」とあるものの、

「輸血してはならない」とは 一切書かれていません。

 

 食べること と 輸血することは、全く違います。

 

 血を食べる習慣は、あまり日本にはありませんが、

例えば、ドイツなどでは、豚肉の腸詰ソーセージを作る際に、

血なども一緒に入れて作ります。

 

では なぜ、聖書は血を食べることを禁じているのでしょうか。

聖書がそれを禁じているのは理由があり、

その理由は レビ記の1711節に記されています。

 

『実に、肉のいのちは血の中にある。

わたしは祭壇の上であなたがたのたましいのために

宥め(なだめ)を行うよう、これをあなたがたに与えた。

いのちとして 宥めを行うのは 血である。』 

                 (聖書 レビ記の1711節)

 

▶この箇所にあるように、旧約時代のイスラエル人たちは、

神様に、動物の いけにえの血を神にささげていました。

人間が それを食べる事は許されなかったのです。

その理由は「イスラエル人の命の贖いをするために、     

血は使われるから」です。レビ記1714節には、

このようなみことばがあります。

 

『すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。

それゆえ、わたしは イスラエルの子らに 言ったのである。

「あなたがたは、いかなる肉の血も食べてはならない。

すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。~」』

     (聖書レビ記17章14節)

 

 神様は、罪を犯したイスラエル人のために、

まことの救い主(イエス・キリスト)が来られ、

十字架で罪の贖いが成し遂げられるときまで、十字架の代わりに 

型として、動物の血(いのち)を要求されたのです。

ですから、イスラエル人は、血を食べる事が 許されませんでした。

また、この規定は 律法を与えられたイスラエル人のみに適応

されており、イスラエル人以外の人々には、適応されることは

ありませんでした。

 

 ▶さて、新約時代になると、十字架の雛型(ひながた)であった、

その血の規定は廃止されました。

 

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『ですから、私の兄弟たちよ。

あなたがたもキリストのからだを通して、

律法に対して死んでいるのです。~

(聖書 ローマ書7章4節)

 

 

キリストは律法を終わらせました。

 それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。』

      (聖書 ローマ10章4節 :別訳)

 

『実に、キリストこそ 私たちの平和です。

キリストは私たちの二つのものを一つにし、

ご自分の肉において、

隔ての壁である敵意を打ち壊し、

様々な規定から成る 戒めの律法を

廃棄されました。

 (聖書 エペソ2章14節から15節)

 

 

キリストはご自分が 私たちのために

   のろわれた者となることで

      私たちを律法の のろいから

贖い出してくださいました。~』

 (聖書 ガラテヤ3章13節)

 

 

▶このように、新約時代では、動物の血の本体である 

イエス・キリストの十字架 がなされたゆえに、

古い雛型の役目は、すべて終わってしまったのです。

 

『神は、「新しい契約」(十字架)と呼ぶことで、

初めの契約(律法)を古いものとされました。

年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。』

 (聖書 へブル8章13節)

 

ですから、現在のクリスチャンは、

血を食べるな という律法に縛られる必要は、

全くありません。

 

▶では最初に引用した新約聖書 使徒1520

みことばは、どのように解釈すべきなのでしょうか。

 

 実は、この続きに答えが記されています。

 

『モーセの律法は、昔から町ごとに

宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で

読まれているからです』(聖書 使徒1521節)

 

 この使徒の働き15章の時代背景は、異邦人が

やっと救われ始めた頃であり、当時のほとんどの

クリスチャンは、ユダヤ人出身でした。

 ユダヤ人は 昔から、会堂(シナゴーグ)で、

聖書(旧約聖書)を読んでいたので、

血や絞め殺したものに対して、かなり敏感で

抵抗があったのです。

 

 エルサレム教会の指導者であったヤコブは、

無用な混乱が起こらないようにと、異邦人から

クリスチャンになった人たちに、これらのことを

お願いしたのでした。

それは、ユダヤ人出身のクリスチャンたちが、

躓くことがないように という配慮から出た提案でした。

 ですから現在でも私たちの周りにユダヤ人の方が

いるのならばその方に配慮して そのようなことは

行わないようにすべきでしょう。

しかし、もし そのような人がいないのであれば、

特に気に留める必要はないでしょう。

 

「輸血拒否をしているエホバの証人」の方は、

輸血をしないことで、「神のみこころを行う」また、

「地上の楽園で生きられる」と考えられています

 

 しかし、今までに述べたように、

血を食べる事に関しては、すでにその本体である

イエス・キリストの十字架 の死が実行され、

律法がすでに終わっているので、それを守ることは

特に何の意味もありません。

(そもそも 輸血に関して、聖書は述べていません。)

 

 また、輸血さえすれば、人のいのちが助かる ので

あれば、輸血することが 神様のみこころ であると

断言することができます。

その理由として、『聖書』にある以下のみことば

があります。

 

(*イエス・キリストが語られた言葉:ライン部分) 

 

それから彼らに言われた。

「安息日に 律法にかなっているのは、

善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。

いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」

彼らは黙っていた。

 (聖書 マルコの福音書3章4節)

 

 イエスキリストこのように言われ 片手のなえた人

を癒されました。

その人はておいても すぐに死ぬことは なかた人

でした。

しかしイエスキリストはこのように言われ彼を癒した

のです。

 

神様のみこころは、このことを通して十分に分かると思います。

 

 イエス・キリストは、すべての人の罪を背負い、

十字架にかかり死なれよみがえられました。

神様は罪人である私たちですらもなお愛して下さり

救いの道を用意して下さいました。

 

 律法の規定を守ることや  努力や善行によっては、

私たちの罪の問題を 解決することはできません。

イエスキリストの十字架にこそ私たちの救われる道

があります。

 

 

 エホバの証人の方や研究生の方またその他の方に

おいて、この機会に 聖書が何を語っているのか、

その本質についてぜひ、知って頂ければ幸いです。

 

 

『 神は すべての人が 救われて

  真理を知るようになることを 

  望んでおられます。

 (聖書 第Ⅰテモテ2章4節)

 

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