§ 私たちの信仰
①神様について
●この世界を創造されたまことの
神は、唯一の神です。
そして、唯一の神は、三位一体
の神です。
三位一体とは、「唯一の神に
は、三つのご人格(三位)があり、そ
れは、父なる神、御子なる神であ
る主イエス・キリスト、聖霊なる
神」ということです。
また、唯一の神である、父・
子・聖霊は、同じ性質と属性、栄
光を備えておられます。
しかも、それぞれのお方が独立
し、自存するのではなく、いつも
一つの思いと目的を持って、協同
しておられるのです。
ですから(本当の意味で) 一体な
のです。
聖書:詩篇110篇、
マタイ28:19、
Ⅱコリント13:13
●「わたしはある」(自存する)とい
われた神は、何も必要とされるもの
はありません。
人間は、空気や水や地球がなけ
れば生存することはできません。
しかし神は、そういうものに一
切頼る必要がなく、ご自分だけで
自存することのできるお方です。
聖書:出エジプト3:14
●聖書は、父なる神の栄光を表す
ために、主イエス・キリストが全
てのわざを行われたと書かれてい
ます。
また聖霊なる神は、主イエス・
キリストの栄光をあらわすため
に、活動しておられます。
父・子・聖霊は、同じ性質と属
性、栄光を備えておられますが、
この順番は変わることがあり
ません。
聖書:ヨハネ17:4、ヨハネ16:14
●主イエス・キリストは、まこと
の神であり、同時に、人間である
お方です。
聖書:ヨハネ1:1、ヨハネ1:14、
Ⅰヨハネ5:22
②聖書について
●聖書は「無謬無誤言語十全霊
感」されている書物です。
簡単にいうと、使われている単
語も含めて、(預言者・使徒を通し
て) 全て神によって書かれたという
ことです。
「聖書はすべて神の霊感に
よる」。
聖書:Ⅱテモテ3:16、
Ⅱペテロ1:20・21
●聖書は、クリスチャンであれ
ば、誰でも理解できるように書か
れてあります。
ただし、当時の常識や、言い回
し、読むポイント等は、学ばなけ
ればならないでしょう。
聖書:Ⅱテモテ2:7、
Ⅱコリント1:13
③罪について
●神は、私たちの行ったこと、話
したこと、思ったことを、全て知
っておられます。
聖書:詩篇139:1~6、
Ⅰサムエル16:7、
マタイ5:21・22、
マタイ5:27・28
●偶像礼拝は、神に対する非常に
大きな罪です。
聖書:出エジプト20:3~6、
ローマ1:18 ~23
●罪を行う者は、必ずさばきを受
けなければなりません。
そのさばきは、永遠の燃える火
の池の地獄です。
そして、全ての人間は罪人
です。
聖書:ローマ6:23、
ローマ3:10~18、
ローマ3:23、
黙示20:11~15、黙示21:8
●ローマ6:6に書かれている「古い
人」とは、「アダムの子孫」と
いう、私たちの立場を表してい
ます。
信じる前の私たちの代表者は、
「アダム」です。
聖書:ローマ6:6 コロサイ3:9
●聖書は、最初の人アダムと共
に、私たち自身が、善悪の知識
の木の実を食べるという罪を共
に犯した、と語っています。
聖書:ローマ5:12、ヘブル7:9・10
●世界中の全ての人間は、アダム
の子孫に属する者と、主イエス・
キリストに属する者の、二つのグ
ループに分けることができます。
聖書:ローマ3:23・24、
ローマ5:15~19
④救いについて
●主イエス・キリストの十字架の
死と復活により、ただ、主イエ
ス・キリストを 自分の神・救い主
と信じる者は、永遠のいのちを
持ちます。
永遠のいのちとは、死後、地獄
に行くことなく、天国に行くこ
とができるということです。
行いによるのではありません。
行いによって救われようとする
ことは、のろいの道です。
主イエス・キリストの身代わり
の死・贖いだけが、人間を地獄
から救うただ一つの道です。
聖書:ガラテヤ3:10 、
ヨハネ3:16、
ヨハネ3:36、
ガラテヤ2:16 、エペソ2:9、
ローマ3:28
●一度受けた本当の救いを失うこ
とは、決してありません。
聖書:ヨハネ10:28・29
●死後には救いの可能性はありま
せん。
つまり、今生きている間に、主
イエス・キリストを信じなけれ
ば、死後、永遠に燃える火の池で
ある地獄に行かなければなり
ません。
聖書:ヘブル9:27、ルカ16:23、
黙示21:8
●聖書は、救いという言葉を「地
獄からの救い」、「間違った歩み
からの救い」、「現在持っている
血肉のからだから、栄光のからだ
へ変えられる」という三通りの意
味で使っていますが、まだ、主イ
エス・キリストを信じていない人
が知らなければならない救いは、
地獄からの救いです。
聖書:ヨハネ3:16、ヨハネ3:36、
Ⅰペテロ2:2、ローマ8:24
●「悔い改め」は、特別なことで
はなく、信じるまでの過程の中
に、悔い改めも含まれています。
そもそも「悔い改め」という言
葉は、「方向転換」という意味
で、それ以上でもそれ以下でもあ
りません。
私たちは、「神について、主イ
エス・キリストについて、自分自
身について」、いろいろと誤解を
していましたが、その誤解から正
しい道に導かれて、信じるに至り
ました。その信仰までの過程の中
で、すでに悔い改めが起こってい
るのです。
また、悔い改めは、この流れか
ら分かるように、神様から与えら
れるものです。
聖書:Ⅱテモテ2:25、使徒5:31、
使徒11:18
⑤歩みについて
●クリスチャンになっても、天に
行くまで、罪は消えることもな
く、弱まることもありません。
聖書:Ⅰヨハネ1:8、ローマ7:8~24
●クリスチャンは、律法によって
歩んではなりません。
律法は、のろいをもたらし
ます。
聖書:ガラテヤ3:10、ローマ3:20
●律法は、イスラエル民族に与え
られたものであり、クリスチャン
が守るべきものではありません。
また、律法を守ることは、
実は、誰にもできません。
聖書:ヘブル7:18・19、
エペソ2:15、
エゼキエル20:25
●律法は、教会時代には、完全に
終わったものです。
なぜなら律法は、レビ族のアロ
ンの祭司職に基づいて与えられた
ものだからです。
祭司職が変われば、必ず律法も
変わらなくてはなりません。
主イエス・キリストは、ユダ族
出身でありながら、大祭司となら
れました。
これは、旧約聖書の律法を、現
在の教会時代に当てはめてはなら
ないことを意味しています。
聖書:ヘブル7:11~14、
ヘブル7:14、
ヘブル7:27、
ヘブル7:18~19
●クリスチャンは、恵みによって
歩みます。
具体的には、バプテスマ(洗礼)が
表現しているように、キリストを
信じたときに、キリストと共に十
字架で死に、キリストと共に墓か
らよみがえった者として、今、自
分は、主イエス・キリストと一体
となって生きていることを信じな
ければなりません。
聖書:ローマ6:3~5、
ガラテヤ2:20
●主イエス・キリストが、神の御
座の右に着座されているように、
主イエス・キリストと一体となっ
た私たちも、今現在、すでに、そ
こに着座しているという立場・事
実を認めなければなりません。
その立場・事実を、信じて歩む
のが、クリスチャンの歩みなの
です。
聖書:エペソ2:6、エペソ4:1
●この立場・事実は、全ての主イ
エス・キリストを信じたクリス
チャン全員に与えられています。
知識や経験の差、敬虔さは一切
関係ありません。
また、これは、クリスチャンの
体験ですらもありません。
聖書を通してなされている神の
宣言です。
聖書:Ⅱコリント5:16・17
●山上の垂訓は、現在のクリス
チャンに適応すべきものではあり
ません。
これは、千年王国におけるイス
ラエルと王国の基準を述べたもの
です。
教会については、一言も語られ
ておられません。
聖書:エレミヤ31:33・34、
エレミヤ32:38~41、
エゼキエル36:25~27
●聖書を正しく理解して歩むため
には、聖書を時代区分して考えな
ければなりません。
これは「ディスペンセイ
ション」という考え方です。
これは聖書を理解するうえで極
めて重要なポイントです。
聖書の時代区分は、大きく分け
ると、八つの時代があると考えら
れています。(七つという人も多い
ですが。)
また、それぞれの時代に、人間
に与えられた責任と、神の目的は
違っていると考えます。
例えば、現在のクリスチャンに
「善悪の知識の木からは、食べて
はならない。」と言うのは意味の
ないことです。
また、現在、ノアの箱舟に乗る
ことも不可能なことです。
時代区分を考えない聖書解釈
は、あまり意味がありません。
聖書:ヘブル1:1・2、エペソ2:7、
エペソ3:5、エペソ3:9、
ヨハネ1:17
●空中再臨は、現在のクリス
チャンの希望です。
パウロもそれを熱望していま
した。
聖書:ピリピ3:10・11、
ピリピ3:20、
Ⅰテサロニケ4:13~18
(天地創造から終末までの
時代区分図)
⑥教会について
●目には見えないけれど、「キリ
ストのからだ」と呼ばれる、一つ
の教会というものが、この世界に
は存在しています。
その目に見えない一つの教会の
頭は、主イエス・キリストです。
聖書:Ⅰコリント12: 13 、
コロサイ1:18
●目に見えない一つの教会は、一つ
の有機体のような存在です。
そのキリストのからだの構成員
は、現在、地上に生きている全て
のクリスチャンから成ってい
ます。
本当のクリスチャンであるなら
ば、教理や教派には関係なく、
皆、その体の一員なのです。
聖書:Ⅰコリント12: 12~13 、
Ⅰコリント12:27
●目に見えない一つの教会に対し
て「地方教会」という存在があり
ます。
これは目に見えるかたちでのキ
リスト教会です。
一般的に使われている教会とい
う言葉は、この地方教会を表して
います。
この地方教会は、目に見えない
一つの教会のひな型であるといっ
てよいでしょう。
聖書:使徒13:1 、Ⅰコリント1:2 、
ピリピ1:1
●地方教会の頭も、主イエス・キ
リストです。
目に見えない一つの教会は、構
成員の入れ替えはあるが、完全な
状態です。
しかし、地方教会は、当教会も
含めて、全て不完全なものです。
罪人である人間の集まりである
がゆえに、決して完全にはなれな
いのですが、それでも私たちはキ
リストの名のもとに集まるように
と、神は、聖書を通して、勧めて
おられます。
聖書:マタイ18:20 、
Ⅰコリント1:11~13、
ピリピ4:2、
黙示2章~3章、ヘブル10:25
●地方教会には、指導者が必要
です。
しかし、聖書が語っている以上
の役職を作ったり、組織を作った
りすることは、賢明なことではあ
りません。
聖書:ヘブル13:17、
Ⅰペテロ5:3、
ローマ13:1、
Ⅰテモテ5:17~19、
エペソ4:11、
Ⅰコリント12:28
●地方教会はそれぞれ独立し、主
イエス・キリストあって歩む責任
があります。
しかし同時に、主にある兄姉に
対して、同じ主の恵みにあずかっ
たものとして、愛を示し合うこと
は、私たちクリスチャンにふさわ
しいことです。
聖書:黙示2章~3章、
コロサイ3:12~14、
Ⅰペテロ2:17、
Ⅰヨハネ4:16
●これらの目に見えない一つの教
会や、地方教会を超えて、ペンテ
コステから空中再臨に至るまでの
全てのクリスチャンで作られてい
る「キリストの花嫁」と呼ばれて
いる教会があります。
この教会は、現在、天で建て上
げられている最中です。
このキリストの花嫁なる教会
は、教会時代の信仰者(クリスチャ
ン)のみによって作られるもの
です。
そして空中再臨の時に完成
します。
聖書:エペソ5:22~32、
Ⅱコリント11:2、
黙示22:17
●真理を犠牲にして、一致を保つ
ことや、交わりを持つことは、正
しいことではありません。
聖書:Ⅰコリント11:19、
箴言23:23、
Ⅱテモテ2:19~21
●今では、ほとんど見られなくな
った聖霊の賜物があります。
それは、奇蹟や、いやしや、異
言等です。
この賜物は、主イエスの場合
は、このお方が救い主であること
を証明するものでした。
使徒の場合は、使徒が神から遣
わされた者であることを証明す
るものでした。
コリントの教会の場合は、これ
が神によって設立されたことを証
明するためのものでした。
しかし、この聖霊の働きは、そ
れらが証明された後、急速に衰え
ていきました。
それは、もう、奇蹟等によって
証明する必要がなくなったから
です。
聖書:ピリピ2:27、Ⅱテモテ4:20
●現在、使徒と預言者はいま
せん。
なぜなら、彼らは、私たちの信
仰の土台を作るという働きを担っ
ていたからです。
新約聖書が完成していなかった
ときには、彼らがいなくては、真
理がわかりませんでした。
しかし、聖書が完成した時に、
逆に彼らがいては、矛盾が生じて
しまうのです。
聖書:エペソ2:20、黙示22:18・19
⑦その他のこと
●クリスチャンは世と分離するよ
うに命じられています。
聖書:Ⅱコリント6:14~18、
ヘブル10:36、
ヘブル11:13~16、
ヘブル13:12~14、
Ⅰペテロ2:11、
Ⅰヨハネ2:15~17
●神のみわざの目的、またクリス
チャンの使命は、神の栄光を表す
ことです。
ただし、私たちの立場は、「す
でに神の栄光を表している存在」
であることを認めなければなりま
せん。
聖書:イザヤ43:7、イザヤ43:21、
エペソ1:3~6、エペソ2;6、
エペソ2:10、エペソ4:1
●キリストの十字架による地獄か
らの救いを伴わない善行は、全く
意味がありません。
聖書:Ⅰコリント1:18、
Ⅰコリント1:23・24、
Ⅰコリント2:1・2、
エペソ2:10
●聖書は、神の選びと、人間の責
任を同時に語っています。
これらのことは、人間の頭では
矛盾しているように見えますが、
神にあっては、そうではないこと
を、信仰によって認めなければな
りません。
聖書:ローマ9:9~24、
ローマ11:5・6、
エペソ1:4、
Ⅱテサロニケ1:8・9
●カトリック教会は、信仰だけに
よる救いを否定し、行いによる救
いを語っています。
聖書から判断すると、これは異
端の考えになります。
聖書:ヨハネ3:16、ヨハネ3:36、
ローマ3:20、ローマ4:5、
ローマ10:9、ローマ11:6、
ガラテヤ2:16、
エペソ2:8・9
●「メシアニックジュー」と呼ば
れる人々がいます。
彼らはイスラエル人ですが、主
イエス・キリストを信じて、地獄
から救われた人たちです。
しかし、自らのことを、教会に
属するものとは考えず、イスラエ
ルに属するものと考えています。
イスラエル人と、キリスト教会
の間には、多くの人間による失敗
がありました。
これは率直に認めなければなら
ないことです。
しかし、聖書は、教会時代に救
われた人は、全て教会の一員で
あり、例外はないと書いてあり
ます。
聖書:Ⅰコリント12:13 、
エペソ2:11~22、
エペソ3:6
●女性の責任者については、士師
のデボラや、女預言者のフルダの
例もありますが、明確に聖書は、
男性が指導者にならなければなら
ないと語っています。
聖書:Ⅰコリント14:34~37、
Ⅰテモテ2:12~14、
Ⅰテモテ3:23
●同性愛について、聖書では
罪であると語っています。
神様は、ソドムとゴモラの人々を
滅ぼされました。
けれども、この行為が、神様の
前に罪であるということを認めて、
主イエス・キリストを信じ
れば、誰でも救われます。
神様はなお、罪人である私たちで
さえも愛し、救いの道を与えて下
