「たたり」・・・?
毎年、夏になると、決まって放送される番組があります。
それは、「幽霊」や「怪奇現象」などの特集です。しかも、そこに出演して
いる人も、かなり真剣に怖がっていることが多いのです。
一見、何でもないことのように見えますが、よく考えると、これは、私たち
日本人の中には、呪いやたたりなどを恐れる心があることを示しています。
また、自分は理性的だと自負しているような方でも、何か悩みがあったり、
事故や病気が続いたりすると、先祖の霊や悪霊のためではないかと考えたりす
るのです。
しかし、私たちのまわりの不幸な出来事や悩み事は、本当に先祖の霊や悪霊
のせいなのでしょうか?
仏壇や墓を大切にして、先祖を供養しないと、本当に先祖の霊に
" たたられる" のでしょうか?
◆奇妙な考え
ある牧師が、先程のように信じている何人かの方に、次のような質問をして
みました。(以下のやり取りで、牧師は「牧師」と、相手の人を「相手」と記
載します。)
牧師「あなたは、お孫さんが、かわいいですか?」
相手「はい。とってもかわいいです。」
牧師「そのお孫さんに、幸せになってほしいと思われますか?」
相手「もちろん、幸せになってほしいです。」
牧師「そうですね。
それでは、仮に あなたが死を迎えたとしましょう…。
仏壇には、あなたの位牌が置かれ、墓に葬られたとします。
けれども、あなたのお孫さんは、仏壇も墓も大事にしてくれません。
それだからといって、お孫さんを病気にしてやろうとか、呪って不幸に
してやろうと思われますか?」
相手「決して、そのようには思いません。
何があっても、孫には 幸せになってほしいと願っています。」
その牧師が、このように聞いた方たちはみな、これと同じような答えをされ
たそうです。
これが、普通の人間としての自然な気持ちであるならば、生きていた時に
は、優しかった おじいさんやおばあさんが、死んでしまうと 親族を呪う
ような、恐ろしい存在になってしまうと考えるほうが、おかしくなってしま
います。
また、ある人は「死んだ先祖が、今生きている私たちを見守ってくれてい
る!」と思っています。そして、そのために 先祖供養をすべきだと考えて
います。
しかし、これは見方を変えれば、「先祖供養しなければ、生きている人間
は、先祖の霊から守られない。」という考えであって、先程の発想と五十歩
百歩なのです。
ですから、私たちの恐れの原因を、何の客観的な証拠もないのに、先祖の霊
の責任にしてはならないのです。
◆ 恐れの「原因」
まず、私たちの心にある「恐怖心の原因」から考えて見ましょう。
それは、実は、私たちを造られた“まことの神様がおられることを認めない
ところ”から生じているのです。
私たちを造られた神様は、ご存在されます。
その証拠として、私たちは、たとえ、どんなに大きなエネルギーと物質があ
ったとしても、秩序もって組み立てる「意志」がなければ、何もできないこと
を知っています。
例えば、空箱の中に、バラバラに分解したボールペン(物質)を入れて、一
時間振り続けた(エネルギーを与える)としましょう。はたして、一時間後
に、ボールペンは、元通りに組み立てられているでしょうか?
そんなことは、絶対にありえません。
たとえ、その振っている時間が、一年であろうと、一万年であろうと、また
一億年であろうと、決して、ボールペンは、元通りにはならないのです。
しかし、人間が組み立てようとする意志をもって、行動するならば、ものの
一分もかからないうちに、ボールペンを組み立てることができるのです。
つまり、この世界が存在し、私たち人間が生きているということは、
「私たちを造ろうと考えた方」すなわち“神様”がおられる間違いない
証拠なのです。
『あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。
この方は、万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれ
る。』(聖書 イザヤ書40章26節)
そして、この絶対者なる方を無視するところから、人間の恐怖心が始まって
いるのです。
なぜなら、神様は、私たちが罪を犯したときに恐れを生じさせる心=良心を
与えられたからです。
しかし、私たち人間は、それでも、創造者なる神様など存在していないかの
ように考え、行動しています。しかも、偶像礼拝やオカルトは、根拠なしに簡
単に受け入れられているのです。
そして、その結果、誰にも分らないから大丈夫とばかりに、陰口やウソをつ
いているのです。
また、近年に至っては、幼児虐待、堕胎(中絶)、残虐な犯罪の低年齢化な
どが、至る所に見られる状態になってしまいます。
聖書は、この神なき「的外れな生き方」を『罪』であると断言しています。
神様は、語っておられます。
『わたし(神)の目は彼らのすべての行いを見ているからだ。
それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠され
はしない。』(聖書 エレミヤ書16章17節)
罪には、必ず刑罰が伴うことを認めなければなりません。
私たちが本当に恐れなければならないものは、罪のさばきであり、死後に、
永遠の炎の地獄に投げ込まれることなのです。
『たましいもからだもゲヘナ(地獄)で滅ぼすことができる方(神)を
恐れなさい。』(聖書 マタイ10章28節)
『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって
いる』(聖書 へブル9章27節)
◆恐れを締め出す「神の愛」
ところが、罪深い私たち人間を、罪の刑罰から救い、罪の赦しによる全き平
安を与えるために、天から地上に来てくださった方がおられます。
その方こそ、イエス・キリストです。イエス・キリストは、神が人となって
地上に来られた方なのです。
『彼(キリスト)は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために
砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち
傷のゆえに、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよ
い、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主(神)は、
私たちすべての者の咎を彼(キリスト)に負