§ 人にはどれだけの土地がいるのか

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 みなさんは、トルストイ『人にはど

れほどの土地がいるか』という小説を

存知でしょうか?

 

 

●この小説の主人公であるパホームは、貧しい農夫だったのですが、だんだんと成功していくのです。

 

 そして、最後には、広大な土地を 非常に安い値段で買えるという話をき、遠路はるばるその地にやって来ました。

 

 その土地では、金一袋で、一日歩いた分だけの土地を所有することができるのです。

  

 ただし、それは、夜明けから日没まで、太陽が沈んでしまうまでに、スタート地点に戻って来なければ、土地を得ることはできず、金も没収されてまうのです。

  

 

●パホームは、走り続けました。

 そして、広大な土地を得る直前まで行ったのです。

 しかし、刻一刻と日は沈み、時間がほとんどないところまでになって しまいました。

 

 彼は死に物狂いで走り続け、そして、スタート地点に、やっとのことでたどりついたのです。

 

●しかし、彼はそこで倒れ、息絶えてしまいました。

  彼はそこで、2メートル四方ほどの土地に埋められ、人生を終えてしまいました。

  

 

「人には、どれほどの土地(物)がいるのか?」ということを、トルストイは、私達に鋭く語っています。

 

 

 『私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。』

                      (聖書 第一テモテ6章7節

 

 

 

●また、これとは、少し違った話ですが、こんな出来事が、実際にありました。

  

 もうかなり昔の話ですが、大阪のある銀行の支店長が、自分の死期が近づいたのを感じたので、次のような遺言を残したのです。

  

 「私が死んだら、棺桶の両側に、穴を開け、そこから、両手を出したままで、火葬場に送ってもらいたい・・・」

 

 そして、実際、このような変わった葬式が行われました。

 

●彼は、銀行の支店長でしたから、人から何億円のお金も預かっていました。

 

 また、自分もたくさんのお金を、預金しており、まるで、金に埋まっているような生活を送っていました。

 

 しかし「死ぬときには、一文もあの世に持っていくことができない」ということ。また「世の富が、はかないものであること」を、人に悟らせるために、彼は文字通り、手ぶらで世を去って行く有様を、皆の前で示したのです。 

 

 

●さて、私たちは 自分の人生が無限に続くものでないことを知っています。

 

 しかし、多くの方たちが、自分の人生はまだまだ続く、自分は当分死ぬことはないと、思っておられます。

  

 また、そのうえで「より多くの物を所有したい。そして、より快適な(幸せな)生活をしたい。」と願い続けているのです。

  

●確かに、この世での幸福を求めることは、人として、ある意味、当然のことではあるでしょう。

 

 しかし、そこには死後について、必ずやってくる 死後の永遠〝 についての考えが、すっぽりと抜け落ちているのです。

 

 

 ●私たちは、もう一度「人間が、本当に必要としているものは、何なのか ?」

 

 そして、その結果として「何を一番にすべきか?」ということをよくえてみなければならないのです。 

  

 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。』

    (聖書 詩篇90篇10節)

 

 

 とあるように、人はこの世での人生は、わずか数十年の期間しかありません。

 

 しかし、これとは比べものにならないほどの、膨大な死後の時間が待っているのです。

 

 ですから、死後を考えることは、誰にとっても必要不可欠なことなのです。

 

 

ある僧侶が、臨終間近の状態になっていました。

 

 彼は、一般の多くの人たちと同じように、死後の確信も、平安も持っていなかったのです。彼の心は、死に直面して、不安と迷いでいっぱいでした。

 

 その悩みを、友人の僧侶に打ち明けたところ、彼は、次のように言ったそうです。

 

「君は迷っているのか。極楽は、あると思えばある。ないと思えばない。あると思え・・・」と。 

 

 

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●要するに、その僧侶は、単なる気休めしか語ることができなかったのです。 

 現実に一人の人が死のうとしているのに、その切実なる問いに対して、誰もまともに答えることができないのです。

  

●しかし、これは、この僧侶だけの問題ではありません。

 多くの方たちも、じようなことを言っています。

  

「善人は天国に、悪人は地獄に行く」

 

「天国も地獄もない。死んだら無だ」

 

「人間は、死んだら生まれ変わる」

 

 それらの答えに、何か根拠はあるのでしょうか?それは先ほどの僧侶が言った気休めと同じものではないでしょうか。

 

●では、死後について、はっきりと根拠を持って語ることができるのは、のような人なのでしょうか。答えは簡単です。死後の世界を見てきた者だけが、死後について語る資格を持っています。

 

 そして、その方こそ、イエス・キリストです。なぜなら、イエス・キリストこそ、唯一、死んだ後、三日目によみがえられた方だからです。

 キリストの復活は、歴史的根拠をもつ事実なのです。 

 

 イエス・キリストの語った言葉や行いは「聖書」に記されてあります。ですから聖書に基づいて、死後のことを知ることができるのです。

  

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●聖書には、はっきりと、この世界を造られたきよいまことの神様がおられ ることを、宣言しています。

 

 まことの神様がおられることは、この世界をそのまま素直に見るならば、誰の目にも明らかです。宇宙の法則や秩序、自然界や動植物、また人間が、偶然勝手にできるはずがありません。(進化論は明らかに間違っています)

  

●そうであるにも関わらず、多くの人は、この世界を造られたまことの神様を認めず、えって、人間の手で造った、木や石の像(偶像)を拝みはじめました。

 

 神様によって造られた人間が、偶像を拝みんでいるのです。これは、的外れな行い『罪』です。

 

 また、神様から離れた結果、人間は、ウソ・悪口・不正を行うことなども、人に分からなければ大丈夫と思うようになりました。しかし、まことの神様は、隠れて行われた全ての罪を、数えておられます。

 

 そして、死後、その罪の清算としてさばきを受けなければならないことを、イエス・キリストは、聖書を通して語っておられるのです。

 

 

 イエス・キリストは、私たち人間が行くべきさばきの場所として、地獄がると、はっきりと語っています。神様を無視した罪人の人間が、死後、行くのにふさわしい場所は、永遠に燃える火の地獄なのです。

 

『不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』

    (聖書 マタイ13章41節)

 

  

 しかし、神様は、このような罪人の私たちに対しても、なお、あわれみ深く、救いの手を伸べておられるのです。

 

 神様は、今から二千年前に、ご自分のひとり子であるイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。そして、この方を十字架につけてくださっのです。

 

 ではなぜ、神のひとり子であられる方が十字架で死なれたのでしょうか。

 

 それは、実に、あなたの罪を身代わりに背負い、死なれるためであったのです。

 

  

『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』 

  (聖書 第一テモテ1章15節)

 

 

 本来ならば、私たちが犯した罪ですから、私たちが地獄でさばきを受けるべきだったのですが、神様はその罪を、そっくりそのまま、イエス様に負わせてくださいました。

 

 また、イエス様は十字架上で死なれましたが、死後三日目の日曜日の朝に、死の力を打ち破ってよみがえられたのです。

  

 このイエス様を信じる者は、十字架のあがないのゆえに、誰でも罪がゆるされ、天国に行ける永遠のいのちが与えられる、と聖書は約束しています。

 

 

『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 

        (イエス・キリスト)

 

 

 私たちは、財産も、名誉も、誇りもすべて手放して、いずれ、死に直面しなければなりません。

 

 どうか、あなた自身が、死後どこに行くのかをお考え下さり、死後のさばきから救ってくださる、まことの救い主を信じられますよう心からお勧めいたします。

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