それは本当に釈迦の教えですか?

◆それは、本当に釈迦の教えですか?

 

 § うちは仏教ですから

 「当家は○○宗の門徒につき他からの宗教上の勧誘は固くお断り申し上げます

  都会にはあまり見られないものですが田舎の一戸建てのお宅の扉にはこのようなシールが張られているのを見かけることがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかしその家の方に「では○○宗とはどういう教えなのですか?」と聞いてもあまり明確な答えが返ってこないことがしばしばあります。

 もし、多くの方が、自分が答えることのできない教えに、死後の救いを期待しているのであれば、それは非常に大きな問題だと言わざるを得ません。

 

 

 今回は浄土真宗を例に「その教えが何を言っているのか・・・?」という事についてかいつまんで考えてみたいと思います。

 

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さて、浄土真宗の開祖である「親鸞しんらん(鎌倉時代初期の僧)は、理想的な僧侶になろうとして真剣に修行をしたのですが、自分自身を見つめなおした時に、戒律を守り通せるほどすぐれてはいない自分の姿に気がつきまし

た。

 そして、本当に救われなければならない人は、悪を犯さねば生きていけない愚かな者たち・・・。

 それは、取りも直さず自分のことだと気づいたのです。

 その後、親鸞は、自分の師となる「ほうねん」に会い、強い影響を受けます。

 

 この法然は「末法と呼ばれる時代に自分ひとりが救われるのではなく、皆もろともに救われる教えはないのか・・・?」という思いから、経を読み込んでいきました。

 

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◆その中で、唐の善導という僧が書いた『観経疏散善義:かんぎょうしょさんぜんぎ』の中「阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が、如来(仏)になるために四十八の誓願を立てた。その誓願の一つに、“衆生を救うことができなければ仏にならない” というものがある。その法蔵菩薩が、阿弥陀如来になったのだから、阿弥陀如来に帰依したから救われる。」という意味の文があるのを発見しました。

 法然は、その文に記されていたことを信じたのです。

 

 また、その教えを、親鸞はそのまま受け入れ、さらに考えを発展させ、「 南無阿弥陀仏と唱える心が起こった時に、すでに、もう往生が決まったのである。 」と教えました。

 ごく簡単に説明するとこうなりますが、ここで、考えるべきことは、・・・

第一に、

『法然が信じた唐の善導という僧の書いた「観経疏散善義」が、釈迦の教えなのか?』という事と

第二に、

そもそも、阿弥陀如来は、実在しているのか?」という事です。

 

 

§ それは、本当に釈迦の教えなのか?

 

善導は、紀元7世紀の中国の唐の僧ですが、彼が学んだ経は、釈迦(紀元前5世紀)の死後、400年程経ってできた『大乗仏教:いじょうぶっきょうの教えであり、1世紀にできた「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であったのです。

 

 主に「大乗仏教」は北から、「小乗仏教」(上座部仏教)は南から伝わったっぽい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本の江戸時代の学者、富永仲基も明確に述べ、中国インドにおいても、また、現在の仏教学者も認めているところですが『大乗非仏説:だいじょうひぶっせつ

 

 すなわち『大乗仏教は仏陀の教えにあらずという事が分かっているのです。

 

 「大乗仏教」は釈迦が直接説いた教えではないのです。

 (小乗仏教[上座部仏教]の方が、本来の釈迦の教え)

  この歴史的事実は、現在の仏教大学においても明確に教えられています。

  ですから、善導が中国において大成した浄土の教えは、釈迦が語った教えではないのです。

 

 

次に、浄土の教えの中心である「 阿弥陀仏 」は、実在した人物なのかどうか?ということを、検証する必要があります。

 

『阿弥陀仏:あみだぶつ』「十五劫(じゅうごこう)の昔には、人間として存在していた・・・。」と言われています。

 

 この「十五劫」という年月は、計算すると「648億年前」ということにな

ります。

 

 

 つまり、先述の話は「阿弥陀仏は、648億年前には人間として存在していた。」ということになります。

  また、阿弥陀仏がいるという「十万億土先の浄土」とは33億光年離れた場所」を意味します。 

 

 

 

 銀河系の直径

 ← 我々の住む銀河系を真上から見た想像図です。その直径は10万光年あります。「光年」と言う距離の単位は、光(約300,000km/秒)が1年間に進む距離のことで、約9,400,000,000kmです。この10万倍です。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、阿弥陀仏がいるという33億光年は、銀河系の直径10万光年よりも遠いところ・・・ということになります。

 このことを、真剣に考えるのであれば、この話は方便であり実際にそのような人物は存在していないということになるのです。

 

以上のことから、そもそも、釈迦が説いた教えではない「大乗仏教」。

 また、「阿弥陀仏」は実在しない架空のものであるということからも、この教えについて客観的に考えなければならないのです。

 

§ 信頼できるもの 

 

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もし仮に、私たちが、自分の全財産を一つの銀行に預けようとするとき、その銀行に預金した場合の利子が他銀行の100倍であったとしても、その銀行が実在しない“架空の銀行”であると分かっているのであれば、そのような銀行には決してお金を預けたりはしないでしょう。

 そうであるならば、私たちの死後の永遠に関して実在しない人物にそれを任せるという事は、大変危険なことであるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』(聖書マタイ16章26節)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖書は、この点について、検証に耐えうる確かなものであり、イエス・キリストが十字架にかかり、死なれ葬られ、三日目に復活されたことも歴史上の事実であるのです。また、キリスト教は、イエス・キリストの復活なしには、起こりえなかったものであり、キリストを信じて殉教していった者たちが、これまでの歴史で何百万人といるのです。

 

 ぜひ、皆様も今一度、家の宗教として受け継がれているその教えが、一体どのようなものであるのか、それは確かに真実であるのかをお考えくださり、本当の救いを求めていただければ幸いです