拝まれている物よりも拝む気持ち

 

       

「何事の おはしますかは しらねども

 かたじけなさに 涙こぼるる」

            (西行)

 

 

       [ 西行]

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 これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて僧侶であり歌人であった西行が、伊勢神宮を訪れたときに詠った歌で「何がいらっしゃるのかは知らないが、有難さに涙がこぼれる。」という意味のものです。

 このような考えや思いは、実は日本人のほとんどの方が持っておられます。祀られているものが何か分からなくても、普通に拝むことができるのです。

 

 

 

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◆たいていの日本人の「神に対する考え方」は、実際に祀られている相手が何なのか、また、相手がどう考えているのか、何を望んでいるのかという事は、基本的には関係ありません。

 

 大切なのは、拝む側の、すなわち、人間側の「真心と熱心さ、真面目さ」であるのです。

 

 『至誠 天に通ず』(真心を持って接すれば、それは天まで通じて、必ず人を動かす…との意味。)この言葉は、その典型的な考えを表しています。

 

 ですから、日本で拝まれている神々は、その日本人の考え方に基づいたものが拝まれています。

 

 

 

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一番多いものが、偉大な、また特殊な自然を祀るという事です。

 ある人たちは、「お天道様」と呼んで太陽を拝みます。

 また、巨木や巨大な岩にしめ縄を張って「大岩不動」などと言って拝むこともあります。また、アオダイショウや、突然変異である白蛇も「神の化身」と言われて敬われてきました。

 

 

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 さらに、石や木で造った像、呪文を書いて壁に張った紙、これらは、いずれも神の憑代(よりしろ)として、神の霊がその品物に宿っていると言われてきました。

 

 しかし、その『神』の正体や出所を多くの方は知りません。

 

 

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そのほかにも、儒教的孝養と、仏教的死者供養の行為と、神道的神観とが一体となり「死者を拝むこと」が行われています。

 「死ぬと仏になる・・・。」と言って香を焚いて拝むのですが、その一方で、死者の汚れがついたからというので塩を振りかけて清めたりもします。(宗派による) 

 また、仏壇と神棚が、同じ家の同じ部屋にあっても、何の違和感も感じないということもあげられます。 

 

 このように、矛盾した二つのものが、同居しているのです。

 

 しかし、矛盾した行為をしても、自分が真面目にしているという理由だけで、問題も疑問も起こらず、その行為をしてしまうのです。

 

はじめに書いたように「何が祀られているのか?」「それは正しいのか?」ということに関係なく、このようなことが日常的に、日本中で行われているのです。

 多くの方たちは、新年に神社に行き、教会で結婚式を挙げ、仏式の葬儀をしても、何の違和感も持たないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普通、私たちが、家・車・パソコンなどの高価な物を買うときは、いろいろと考え、吟味をすると思います。「家なら欠陥住宅でもいい・・・。」とか、「車なら車輪があれば何でもいい・・・。」という人はいないでしょう。

 ところが、そのようなものよりも、はるかに大切な問題である『神』や『人の命の終わり、死後』については、深く考えようとする方は少ないのです。

 

 私たちは、この問題について後回しにせず、真剣に考えるべきではないでしょうか・・・。

 

 

§ 聖書は何といっているのか?

 

 

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◆では、私たちが拝んできたものは、一体、何だったのでしょうか?

 それは、木・石・金属を利用し、人の手によって造られた「偶像」であると聖書は記しています。

 ある人は、「その偶像の中に、何か霊的なものが宿っている。そして、その偉大な霊的なものを拝む。そこに、ご利益を求める・・・。」という方もおられるでしょう。

 

 

 

ガネーシャ祭 2013

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆しかし、考えていただきたいのです。

 そこに、何がいるかは分からないが、ご利益があるから拝む・・・ということは、言い換えるならば、「ご利益をいう目的を達成するのであれば、どのようなものを拝んでも構わない。何を拝むかは問題ではない・・・。」ということになるのです。

 

 果たして、それで本当に良いのでしょうか?

 

 

 

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『愛する者たち。霊をすべて信じてはいけません。~その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。』

                      (聖書 第一ヨハネ4章1節

 

 

 

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。

 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。

 神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。』(聖書 使徒17章24節~25節

 

 

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◆聖書を読むならば、私たちが今まで拝んできた八百万(やおよろず)の神々と、聖書が語っている神が違うことが、すぐに分かります。

 聖書は、まず、『神は唯一です。』と語っています。

 私たちは、宇宙の至るところで同じ法則が通用すること、つまり、宇宙の構造に一致があることを認めています。それは、宇宙を宇宙として統合している知性のある、力のある唯一の存在を示しています。

 また、何ものも、原因なしで存在することはできません。それは、宇宙に関しても同様です。

宇宙の存在にも、それにふさわしい第一原因がなければなりません。

それが、唯一の創造者なる方なのです。

  

 ◆また、私たちが、世界中に存在するあらゆる自然界の様子を観察していくならば、そこには、見事なデザインを見出すことができません。進化論は、デザイナーなどいない。すべて、偶然にできたものだといいますが、それは、全く理にかなっていない考えなのです。

 

◆生物の不思議な機能、自然会の精密なバランス、小宇宙と呼ばれる人体などは、デザイナー、すなわち、創造者なしには、存在することはありえません。これらのことから、人間は、唯一まことの神様のご存在を知ることができるのです。

 

『神の、目にみえない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。』聖書 ローマ1章20節

 

 

 

◆神様のご存在は、明らかであり、それを否定することは、神様に対する『罪』であると聖書は語っているのです。

 万物の根源であられる神様は、今も生きておられます。

 そして、その神様は、正義の神様であるのです。私たち人間は、この本当の神様を本来ならば、おそれ敬わなければならないのです。

 

人間は、ご利益を求めるため、また、様々な目的を持って、神と呼ばれる物を拝んできました。

 

 

しかし、やがて私たちは人生の終わりの時に、このまことの神様の前に、自分のしてきた行いに応じ、それぞれ報いを受けるのです。

 

『すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず~』

                      聖書 ローマ書3章23節

 

 このままであるならば、罪人である私たちは自分の罪のゆえに、死後に、そのさばきを永遠の燃える火の池、地獄で受けなければならないのです。

 

 

 

 

 

◆しかし、神様は、このような罪人である私たちですら愛してくださいました。イエス・キリストの十字架によって救いの道を備えてくださったのです。

 

 イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負い、十字架で死によみがえられました。キリストを信じる人は、罪がゆるされ、天国に行ける永遠の命を受けるのです。

 

 これは、ご利益とは全く異なるものです。

 

 私たちが、何かを差し出したりすることで、その見返りに願いが叶えられるというものではありません。

 

 

『働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。』聖書 ローマ書4章5節

 

 

 神様の側が、罪人である私たちを愛し、恵みを与え、救いを成し遂げてくださったのです。

 

 

  どうか、あなたもこの神様の救いをご自分のものとして受け入れられますよう、心よりお勧め致します。 

 

 

 

 

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)のささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。』(聖書 第一ヨハネの手紙4章10節)