迷える子羊

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 私たちは人生の中でさまざまな事柄について

 

迷うことがあります。

 

どんな仕事をすべきか誰と結婚すべきかその他、

 

家や車、子供のこと、介護や老後のことなど、

 

何が良いのか、どうすればよいのかと考えるのです。

 

 

 しかし、色々な事に迷う人でも「自分自身」が

 

今現在、迷子になっていると思う人は、恐らく

 

おられないでしょう。

 

 

 迷子になった経験がある方なら、理解できるかも

 

しれませんが、

 

「自分が、今どこにいるのか分からない・・・。」

 

という状態は、非常に恐ろしいものです。

 

  たいていの人は、今の自分が、そのような状態に

 

あるとは感じていません。

 

 しかし、「聖書」には、私たち人間の現状について、

 

次のような話を通して、語られています。

 

 

 

 

 

 

『 ~ そこでイエスは、彼らに

 

     このような たとえを話された。

 

「あなたがたのうのだれかが 羊を百匹

 

持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、

 

その人は九十九匹を野に残して、

 

いなくなった一匹を見つけるまで

 

捜し歩かないでしょうか。

 

見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、

 

友だちや近所の人たちを呼び集め、

 

『一緒に喜んでください。

 

いなくなった羊を見つけましたから』

 

言うでしょう。

 

あなたがたに言います。それと同じように、

 

の罪人が 悔い改めるなら、

 

悔い改める必要のない 九十九人の正しい人のため

 

よりも、大きな喜びが 天にあるのです。~』

 

        (聖書 ルカ15章3~7節)

 

 

 

 

 

 これは、有名な「迷える子羊」という箇所です。

 

 日本では、あまりなじみがないかもしれませんが、

 

家畜としての「羊」という動物は、人間の世話が

 

必要不可欠な存在です。

 

餌を得ることも、健康管理も、すべて「羊飼い」に

 

依存しています。

 

 もしも、羊飼いのもとから離れてしまうなら、

 

その羊は、生きていくことができないでしょう。

 

目もあまりよくなく、それほど速く走れない、身を守る

 

爪や牙がないこの動物は、ただ死を待つしかないのです。

 

  

 

羊飼いは、それをよく知っていますから、

 

どんなに大きな犠牲を払っても

 

羊を見つけるまで捜して歩き続けるのです。 

 

 

 

 さて、この聖書の記事ですが、これは単に、動物と

 

飼い主との触れ合いを語っているのではありません。

 

この話は、「私たち と まことの神様」との関係を、

 

「羊と羊飼い」にたとえて語っているのです。

 

 

  

  そのことは、聖書の次の箇所からも、明らかです。 

 

 

 

 

『 私たちはみな、羊のようにさまよい、

 

それぞれ自分勝手な道に向かって行た。』

 

           (聖書 イザヤ53章6節)

 

 

『 すべての者が離れて行き、だれもかれも

 

  無用の者となった。』

 

        (聖書 ローマ3章12節) 

 

 

 

 

 

 聖書は、すべての人が、例外なく、本来歩むべき道から

 

迷い出ていると告げているのです。

 

 

 では、私たちは、どこから迷い出たのでしょうか?

 

 

 

●どこから迷い出たのか?

 

 

 

 実は、私たち人間は、まことの神様を忘れ、この神様の

 

もとから迷い出てしまっているのです。

 

「聖書」には、この世界を創造された本当の神様がおられる

 

とはっきり書かれています。 

 

 

 

 

『神の、目に見えない性質、

 

すなわち神の永遠の力と神性は、

 

世界の創造さたときから被造物(造られたもの)を

 

通して知られ、はっきりと認められるので、

 

彼らに弁解の余地はありません。』

 

                                       (聖書 ローマ1章20節)

 

 

 

 

 

 神様がご存在されることは、秩序あるこの自然界や

 

宇宙、ロボットよりも はるかに精巧な仕組みを持った

 

人間の体の仕組みなどを見れば、明らかです。

 

たちは、造られたものを通し、造り主の存在を

 

知ることができるのです。

 

 

 ところが、私たちは、まことの神様を忘れ、

 

今まで歩んできました造り主なる神様から離れた結果、

 

私たちは自分が何のために存在し、何ために生きてい

 

るのか、分からない者となりました。 

 

 

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 それは、ちょうど海に沈んでしまった防水機能のある

 

時計のようです。

 

 そのような時計なら、海底であっても、電池が切れる

 

まで動き続けるでしょう。

 

 

 

 しかし、どこも壊れていないその時計は、いくら正確に

 

時を刻んでも、もはや意味がありません。

 

その時計を見る人間がいないからです。

 

時計は、人間もとにあってこそ、時計としての

 

本来の目的が、全うされるのです。 

 

 

 

 また、さらに悲惨なことに、人間は、神様のもとから

 

迷い出てしまったため、

 

 

常に死の恐怖におびえながら生きる者になってしまいました。 

 

 

 

 では、どうして、人は「死」を恐れるのでしょうか?

 

 

 

 それは、死が、単に親しい者との別離だけでなく、

 

 

死後、どこへ行くのか分からないからです。

 

 

また、良い所に行くのではなく、悪い所へ向かっていると

 

 

思っているからです。

 

 

 

 

 そして、事実そうなのです。 

 

 

 

『罪の報酬は死です。』(聖書 ローマ6章23節)

 

 

『すべての人は罪を犯した』(聖書 ローマ3章23節) 

 

 

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 きよく正しい神様から見れば、すべての人間は、

 

 

「罪人」なのです。神様は、人の行い(嘘、偽り、悪口、

 

 

盗みなど)や、心の中の思いもすべてご存知です。

 

 

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 また人は、石や木など人の手で作られた偶像を、

 

 

神として拝むようになりました。

 

 

まことの神様は、これら人間の罪を必ずさばかれるのです。 

 

 

 

『人間には、一度死ぬことと

 

 

死後にさばきを受けることが定まっている』

 

              

   (聖書 へブル9章27節)

  

 

 

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 このままであると、私たちは、死後自分の罪の行いに

 

 

応じてさばかれ、永遠の燃える火の池である、地獄で罰を

 

 

受けなければならないのです。

 

 私たちは、自分が罪を持った「罪人」であるがゆえに、

 

 

死と死後のさばきを恐れているのです。

 

 

 

 

●どうすればいいのか?

 

 

 

  

 しかし、まことの神様は、神様のもとから離れ、

 

 

自分勝手な道を歩んでいる罪人の私たちでさえも、

 

 

なお愛して下さいました。

 

  

 

 

『わたし(キリスト)は良い牧者(羊飼い)です。

 

 

良い牧者は羊たちのためいのちを捨てます。』

 

 

      (聖書 ヨハネ10章11節)

 

 

『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』

 

       (聖書 第1テモテ1章15節) 

 

 

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 今から約2000年前、イエス・キリストはこの世に

 

 

お生まれになりました。

 

 

 それは、この方が、私たち人間のすべての罪を背負い、

 

 

十字架にかかり、私たちの身代わりに罪のさばきを受ける

 

 

ためでした。 

 

 そして、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で

 

 

死んで下さいました。その後、キリストは、死後三日目の

 

 

日曜日に復活され、ご自分がまことの神であり救い主である

 

 

ことを示されたのです。 

 

 

 

 

 

『しかし、彼(キリスト)は

 

 

私たちの背きのために刺され、

 

 

私たちの咎のたに砕かれたのだ。

 

 

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

 

 

その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。』

 

 

        (聖書 イザヤ53章5節) 

 

 

 

 

 

 誰でも、イエス・キリストを、

 

 

「私の罪のために、十字架で身代わりに死に

 

 

よみがえられた神の御子、救い主」と信じる人は、

 

 

罪がゆるされ、死んだ後も、永遠の天国に行くことが

 

 

できるのです。

 

  

 

『御子(キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持っている』

 

           (聖書 ヨハネ3章36節)

 

 

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 キリストは、実に、あなたを捜し救うために、

 

 

この世に来られたのです。

 

 

ことの神様は、あなたを愛しておられます。

 

 

そして、この救いを、無償の贈り物、プレゼントとして

 

 

あなたに用意しておられるのです。

  

 

 迷える子羊であるあなたを救うため、十字架で死なれた

 

 

イエス・キリストの素晴らしい救いを信じ受け入れられます

 

 

ように心よりお勧め致します。