『コロナよりも怖いもの』

 

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  新型ロナ禍の日本において、私たちの生活の中でも、

さまざまな変化が起こりました。インターネットを使用した

オンライン会議やオンライン授業、マスクの着用や 手指の消毒

などこれまでは、それほど行う頻度が少なかったことが、

もはや日常のものとなりました。

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   しかし、新しい生活様式が定着しつつある世の中において、

これまでになかった問題も 数多く 起こってきました。 

その一つに、差別の問題があります。  

新型コロナと闘う最前線にいる人たちが、酷い差別を受けたと

 いうことです。

 例えばある看護師は、自分の子供が通ていた保育所から

「当分子供さんを連れて来ないで下さい…。」と言われたの

でした。

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 普通に考えれば、医療従事者が、そのような状態で勤務が

できなくなってしまうと、医療体制が維持できなくなり回り

まわって自分たちが困ることは、どう考えても明らかです。

 なぜ このようなことをするのでしょうか? 

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  このような話を聞けば「そんなことをしてはダメだ!」と

 誰もが言うでしょう。

 しかし、実際に、自分の隣近所にコロナ感染の現場で従事して

いる方がいた場合、「自分には近づかないでほしい・・・。」と

いう気持ちが湧き起こる方もおられるのではないでしょうか。

 

  つまり、私たちは、何が正しいかを知っているにも関わらず、

実際に、自分の身に災いが降りかかりそうになると、

「仕方がないではないか…。」と言い訳しながら差別することを

 受け入れてしまっているのです。

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  これは、コロナ禍だから仕方がない ということではなく、

このような危機的な状況によって、人間の本来の姿が露わに

されただけだと言うべきでしょう。

  私たち人間は、非常に利己的であり本音と建て前を使い分け

ます。 

  

聖書 』には、私たち自身の内にあるものが

コロナや他の病気よりも恐ろしいものである

と記しています。

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『 人から出て来るものそれが人を汚すのです

 内側からすなわち人の心の中から、 

 悪い考えが出て来ます。

 淫らな行い盗み、 殺人姦淫、貪欲、悪行、

 欺き、好色、ねたみ、ののしり高慢、愚かさで

 これらの悪はみな内側から出て来て

 人を汚すのです。』 

                         (聖書 マルコ七章二十節) 

 

 このように聞くとある人たちは

「自分はそんなに悪い人間ではない警察に

 逮捕されたり、刑務所に入ったこともない。」

と言われるでしょう。

 

 

しかし、聖書で語られる「罪人」とは、犯罪者と

いう意味だけではありません。

 

私たちは、自分と人を比べて     

 「あの人よりはまし…」と、      

自分自身のことを判断しがちです         

 

 

しかし、イエス・キリストは、

このように言われました。

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『 自分を愛してくれる人を愛したとしても、 

あなたがたに 何の報いがあるでしょうか。 

 取税人(悪人)でも 同じことをしているでは

ありませんか。』     

                       (聖書 マタイ5章46節)           

 

『「殺してはならない。

人を殺す者はさばきを受けなければならない」

と言われているのを、

あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。   

兄弟に対して怒る者は、

だれでも さばき受けなければなりません

兄弟にばか者と言う者は 最高法院で

さばかれます 

愚か者と 言う者は火の燃えるゲヘナ地獄

投げ込まれます。』         

聖書 マタイ5章21~22節)

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私たちはこのような基準に達している

でしょうか? 

 

おそらく、たいていの方は無理だと言われる

でしょう

 

しかし誰も到達できないほどの この高い

基準こそ様ご自身の基準なのです。 

 そして私たちが自分があるべき正しい姿

から遠く離れていることを認めず、

あえて無視する姿を 聖書はと呼んで

いるのです。

 

『 なすべき良いことを知っていながら

行わないなら、それはその人には

罪です。』

聖書 ヤコブ4章17節)

 

 

 『人は うわべを見るが

          主()は心を見る

          聖書 第Iサムエル17章七節)

 

 

人の心と思いを探られる方がおられその方の

前には、すべてが知られているのです。

 

  このように、聖書は、私たち人間について覆い

隠してしまいたくなる側面についても述べている

のです。

  

『罪に陥らない人は一人もいません。』

              (聖書 第Ⅰ列王8章46節

 聖書が語る罪人とは、人が

「的外れ」な生き方している状態だとも

表現されています。

 これは、西側に的があるのに、東に向いて矢を向けて

射るような状態を表しています。

人間が、本来あるべき姿から遠く離れている様子を意味

しているのです。

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 では、人のあるべき姿とはどういうものなのでしょうか?

何がその基準になるのでしょうか。

これは、隣の人と比べて…という話ではありません。

聖書は、その基準となる あるべき姿こそ、

イエス・キリストであると語っています。

 

 

 

 

 さて、イエス・キリストのこれらの言葉に

驚いたのは、彼のいた約2000年前の人々も

同じでした。

イエス・キリストが来るまでは、自分たちは

正しい人間だと考えていた人々は、自分たちの

罪深さを示したイエス・キリストを憎み、何とか

その言葉尻を捉えて訴えようとしました。

 

しかし、罪のないイエス・キリストを告訴することは難しい事で

した。それでも 彼らは、でっち上げの証拠や不当な裁判により、

イエス・キリストを捕らえ、十字架に架かるように仕向けたの

でした。キリストを十字架につけることに成功したのです。

 

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 このイエス・キリストの十字架は、一見すると当時の

人々の憎悪と策略の結果でした。しかし、神様は、この十字架を

通して、私たちに救い道を与えられたのでした。

 

『罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。』

                       (聖書 ロマ5章20節

 

  『キリストは 自ら十字架の上で、

      私たちの罪をその身に負われた。』

          (聖書 第Ⅰペテロ2章24節

 

 本来は私たち罪人が、自らの罪のさばきを受け、地獄に行か

なければなりませんでした。しかし、神様は、このような罪人

の私たちでさえも愛して下さいました。

 神の子イエス・キリストが、私たちのすべての罪を背負い、

十字架で私たちの身代わりに罪の罰を受けて下さいました。 

そして、イエス・キリストは、ご自身が、まことの神・救い主

であることの証拠として、死後三日目によみがえられたのです。

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このイエス・キリストを、まことの神、まことの救い主と信じる

人は、罪が赦され、地獄ではなく天国に行く者とされると聖書は

約束しています。

 

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに

世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として

滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

                    (聖書 ヨハネ3章16節

 

 ぜひ、あなたも、私たち自身の内にある罪について今一度

考えて下さり、神様の救いであるイエス・キリストを信じられ

ますよう、心からお勧めいたします。

 

『キリスト・イエスは 罪人を救うために 世に来られた。』

                    (聖書 第Ⅰテモテ1章15節

 

 

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