§ 人の命の価値

◆ なぜ、こんなことが…!?

 

 

 最近、ニュースや新聞で、よく報道されるのが「人殺し」などの犯罪です。

 

 とくに、犯罪の低年齢化も進み、未成年の凶悪犯罪等の事件をニュースで見られた方は、心を痛められたことでしょう。

 このように、現代においては、実に簡単に、しかも、驚嘆するような動機で人殺しを行う事件が増加しているのです。

 

 なぜ 彼らは、そのような凶悪な犯罪を安易に行うことができたのでしょうか?

 

  

 

 

 

◆彼らに共通して見られる傾向は、「人間の価値が分からない・・・。」ということです。

 彼らは、まず、自分自身の存在の意味「なぜ、何のために生きているのか?」ということが、分からないのです。自分の価値が分からないから、なおさら、他人の価値も分かるはずがありません。

 そうなると、自分のしたいことには興味を示すが、他のものには、無関心になり、どうでもよいと考えてしまうのです。

 もちろん、犯罪に至る経緯は、いろいろとあるでしょう。しかし、ここに根本の問題があるのです。

 

 そして、このことは、私たちにも問われているのです。なぜなら、あなたご自身が「これが、人間の生きる価値だ!」とはっきりと言えるものを持っておられるでしょうか?

 

  

 

 

◆ある方たちは、「子供のために生きてきた・・・。」「財産を残す事ができた・・・。」と言われるでしょう。

 また、他の方は「一瞬一瞬の楽しみのために人生はある・・・。」「社会の為、人のために貢献することこそが、生きがいだ。」等、考えておられます。

 しかし、これらの事は「人間固有の価値」という問いから外れているのです。

  

   なぜなら、今はよくても、あなたが、障害を持った時に、また、周りの環境がまったく異なったものになった時に、それらのものは、全て失ってしまう可能性があるからです。

 逆にいえば「決して、失うことなく存在し続ける自分という人間の価値」言い換えるならば「このために、すべての人間は生きているのだ。」というものを、あなたは知っておられるでしょうか?

 

 

 ◆ あなた自身の価値 

 

  

 

 

 

は、「このために、すべての人間は生きている!」と言えるものとは、一体、何なのでしょうか?それを知るためには、そもそも、私たちがどこから来たのかを、考えなくてはなりません。

 

 私たちが存在しているのは事実ですから、この事実に基づいて、二つの起源が考えられます。

   ひとつは、「たまたま偶然に、人間ができた。」という考えです。

 もうひとつの方は、「私たち人間を造られた造り主がおられる。」という考えです。

 前者の方は、生命は偶然に誕生したという『進化論』という考え方です。そして、こちらの考えの方が、広く世に浸透しています。 

 しかし、本当に、進化論が正しいのかどうかを、考えてみて頂きたいのです。

 

 

 

 

 

◆日本には、ホンダ技研が造った「アシモ」というロボットがあります。

 このアシモには、人間の最高の技術が随所に使われています。このロボットは、階段を上がったり、走ったりすることができるのです。(これらは、いずれも世界初)

 しかし、ここで冷静に考えてみると、「アシモ」と「人間」とでは、どちらが精巧にできているでしょうか? それは、言うまでもなく“人間”です。

 アシモの100兆倍以上も能力のある「脳」。カメラよりも複雑で精巧な仕組みを持つ「目」。それらを人間は持っているのです。

 大爆発《ビッグバン》や、何億年という長い年月さえかけていればできるということは、決してないのです。

 

  

 

◆また、「熱力学第二法則」《使えるエネルギーは、使えないエネルギーに変化していき、その逆はない。》という基本的な科学の法則からみても、簡単なものが、複雑なかたちに変化していくことは、あり得ないのです。

 

 これらのことを考えるならば、人間は偶然に存在しているのではないことが分かります。

 

 ロボットが、人間によって知識を駆使して造られたように、私たちは、私たち以上の計り知れない英知を持った方によって造られたのです。

 

 そして、「人間の価値」とは、この造り主なる方と人間との関係を通して与えられる価値であるのです。

 みなさんが持っておられる携帯電話が、それを使用する人間がいてこそ、その意味があります。

 逆に言うのであれば、どんなに精巧に、最先端の技術をもって造られた携帯電話でも、それが、海底に深く沈んでしまったとしたら、その価値は失われているのです。

 

 私たち人間も、創造主、造り主なる神様の前に、本来の生きる意味と価値があるのです。

 

 『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。』

        (聖書イザヤ書434

 

◆しかし人間はこの本当の神様から離れて生きるようになってしまいました。

 

 まことの神様の愛のうちに生きるはずであった人間は、神様を無視して生きるようになった結果、自分自身の価値を見失ってしまったのです。

 また、嘘・偽り・悪口・憎しみ・盗み・不品行、人殺しなどを行い、きよく正しい創造主なる神様の前に、罪を行っています。

 そればかりでなく、人は、自分の手で、木や石などの材料をもって、神を造るようになりました。このような“的外れ”な生き方を、聖書では『罪』と語っています。

 

 そして、聖書は、このような人間の姿について、以下のように記しています。

 

 

 

 

義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。』

    (聖書ローマ書3章10~11節)

 

 『すべての人は罪を犯した~。』

      (聖書ローマ書323節)

 

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。』

      (聖書イザヤ書53章6節)

 

 きよく正しい本当の神様はご存在されます。

 ですから、人間は、このままであると、死後、罪の刑罰の場所である地獄(火の燃える池)で、自分自身の行った罪のゆえに、さばきを受けなければならないのです。

 しかし、神様は、このような罪人である私たちですら、なお愛してくださいました。私たちを地獄から救うために、神の御子イエス・キリストがこの世に来られました。

 

 そして、このイエス・キリストは、すべての人の罪を背負って、私たちの身代わりに十字架にかかり、罰を受けてくださったのです。  

 キリストは自分が神であり救い主である確かな証拠として、死後三日目に、復活されました。

 だれでも、イエス・キリストが十字架で死なれ、よみがえられたのは、自分の罪のためであり、イエス・キリストは自分の救い主であると信じる人は、罪がゆるされ永遠のいのちを持ち、死後、さばきを受けることなく、天国に行く者とされるのです。

 

 

 

 

 

 

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(人間)を愛された。それは、御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

        (聖書ヨハネ316

 

神様は、あなたが、本当の神様の前に立ち帰るのを待っておられます。

 

ぜひ、あなたを造られた神様のもとに帰られますよう、心よりお勧め致します。

 

 

 ・・・主()に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』

        (聖書イザヤ書557)