§救いに行いは必要か

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 エホバの証人では「救われる

 

 

(楽園に入る)には、キリストに

 

対する信仰だけでなく、良い行い

 

が必要です。良い行いをたくさん

 

すれば、神様がその人に目を

 

留めてくださり、地上の楽園に

 

入れてくださいます。また、

 

さらに良い行いに励み、神様が

 

目を留めてくださる人は、

 

14万4千人に選ばれ、天の

 

楽園へ行けます。だから良い

 

行い(聖書の学び、伝道活動

 

など)に励みましょう。」

 

と教わります。

 

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 確かに良い行いはすばらしい

 

もののように見えますが、

 

果たして、聖書は、行いを救い

 

条件として語っているの

 

でしょうか?

 

 聖書を見ていきたいと

 

思います。

 

(以下、エホバの証人が使って

 

いる「新世界訳聖書」から見て

 

いきます。通常のキリスト教の

 

教会では「新改訳聖書」

 

使っています。

 

 

 さて、聖書をよく見てみると、

 

次の聖句が記されています。 

 

 

 『罪人を正しいと認める神に

 

  信仰を持つ人は、行いが

 

  なくても、信仰のゆえに

 

  正しいと見なされます

 

  (新世界訳聖書:

 

     ローマ4章5節)

 

 

 この箇所では、救い(神様から

 

 

正しいとみなされること)は、

 

行いによらず、信仰によると

 

語っています。

 

 さらに、聖書は以下のとおり

 

述べています。

 

 

 

 この惜しみない親切のおかげ

 

  で、皆さんは信仰のゆえに

 

  救われました。この救いは

 

  皆さん自身によるものでは

 

  なく、神からの贈り物です。

 

  自分の行いによるものでは

 

  ありませんから、誰も誇る

 

  ことはできません。』

 

 (新世界訳聖書:

 

   エフェソス2章8、9節)

 

 

 

 「惜しみない親切」とは、神様

 

御業のことで、イエス・

 

キリストの贖いの死のこと

 

です。

 

 

 神様は、罪人である私たち人間

 

ために御子イエス・キリスト

 

を、この世に遣わされ、また、

 

イエス・キリストは私たちの罪

 

の贖いのために、死なれ、

 

よみがえられました。

 

 

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 この箇所では、このイエス・

 

キリストの贖いの死と復活を

 

「信じる」ならば救われること、

 

また、この「救い」は神様から

 

の贈り物であり、私たち人間の

 

行いは一切関係ないのだという

 

ことを語っています。

 

 

 

 以上2つの聖句を挙げました

 

が、その他の多くの聖句

 

(聖書全体で約100箇所)も、

 

「救いは信仰による。」という

 

ことを述べているのです。

 

 例えば次の聖句などです。

 

 

 

しかし、彼は自分を受け入れた

 

 人全てに、神の子供となる権利

 

 を与えた。その人たちが彼の名

 

 に信仰を抱いていたからで

 

 ある

 

(新世界訳聖書:

 

  ヨハネの福音書1章12節)

 

 

 

神は、自分の独り子を与える

 

 ほどに人類を愛したのです。

 

そのようにして、独り子に信仰

 

を抱く人が皆、滅ぼされないで

 

永遠の命を受けられるように

 

しました。神が自分の子を世に

 

遣わしたのは、彼が世を断罪

 

するためではなく、世が彼を

 

通して救われるためです。

 

彼に信仰を抱く人は

 

裁かれません。

 

信仰を抱かない人はすでに

 

裁かれています。その人は、

 

神の独り子の名に信仰を抱いて

 

いないからです。

 

(新世界訳聖書:

 

ヨハネの福音書3章16節~18節)

 

 

 

子に信仰を抱く人は永遠の命を

 

 受ける。子に従わない人は命を

 

 得ず、神の憤りがその人の上に

 

 とどまる。

 

(新世界訳聖書:

 

  ヨハネの福音書3章36節)

 

 

惜しみない親切によって

 

 選ばれるのですから、もはや

 

 行いのゆえに選ばれるのでは

 

 ありません。行いのゆえに

 

選ばれるとしたら、惜しみない

 

親切は惜しみない親切では

 

なくなってしまいます。

 

(新世界訳聖書:

 

  ローマ11章6節)

 

 

 

神は私たちを救ってくださり、

 

 招いて聖なる者としてください

 

 ましたが、それは私たちの行い

 

 のゆえではなく、ご自分の目的

 

 と惜しみない親切のゆえです。

 

 その親切は、はるか昔に

 

 キリスト・イエスと関連して

 

 私たちに示されました。

 

(新世界訳聖書:

 

   Ⅱテモテ1章9節)

 

 

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 また、「救われるには行いが

 

必要」であるということを

 

突き詰めて考えてみますと、一体

 

どれほどの行いをしなければ

 

ならないのでしょう。

 

 例えば、1日5時間の伝道が

 

必要なのでしょうか?

 

もっと必要かもしれません。

 

 では、1日10時間の伝道が

 

必要でしょうか?

 

まだ不十分かもしれません。

 

 では、1日24時間の伝道が

 

必要でしょうか?

 

 人間には不可能です。しかし、

 

これほどしなければいけない

 

のかもしれません。

 

 結局のところ、どこまですれば

 

いのか、きりがありません。

 

 しかも、どれだけやっても、

 

「これで大丈夫だ。」と確信

 

できません。

 

 「もしかしたら、足りないの

 

かもしれない・・」という不安

 

抱え続けることになります。

 

 果たして、聖書は、救いを

 

このような不安定なものだと

 

述べているのでしょうか?

 

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 さて、エホバの証人の方も

 

認めているように、聖書は神様

 

ことば(Ⅱテモテ3章16節)

 

ですので、聖書に、誤りや矛盾

 

有り得ません。

 

 聖書に書かれてあることを、

 

神のことばとして、真摯に受け

 

止める必要があります。

 

 聖書中に、「救いは信仰に

 

よる。」と述べている聖句が

 

多くありますので、救いに

 

ついて考えるときに、これらの

 

聖句を考慮するべきではない

 

でしょうか?行いを救いの条件

 

として加えることは、果たして

 

正しいことなのでしょうか? 

 

 

 なお、エホバの証人では、

 

ヤコブの手紙2章24節、

 

26節を根拠として、「救いには

 

行いが必要である。」と

 

学びます。

 

 

『人は行動によって、正しいと

 

 認められるのです。信仰だけ

 

 で認められるのでは

 

 ありません。』

 

 (新世界訳聖書:

 

    ヤコブ2章24節)

 

『生命力のないからだが死んで

 

 いるのと同じように、行動が

 

伴わない信仰も死んでいるの

 

です。』

 

(新世界訳聖書:

 

   ヤコブ2章26節) 

 

 

 確かに、これらの箇所を見ると

 

救われるには行いが必要なのでは

 

ないかと思うかもしれません。

 

 しかし、このヤコブの手紙を

 

良く見てみると、この手紙は、

 

救われた、クリスチャンに向けて

 

書かれたものであり、救いの条件

 

について記したものではないこと

 

が分かります。

 

(手紙の中で、ヤコブは何度も

 

「私の兄弟たち~」と書いて

 

います。) 

 

 

私の兄弟たち、さまざまな試練

 

 に遭う時、それを喜ばしいこと

 

 と考えましょう。

 

(新世界訳聖書:

 

      ヤコブ1章2節)

 

 

私の愛する兄弟たち、思い違い

 

 をしてはなりません。

 

(新世界訳聖書:

 

      ヤコブ1章16節)

 

 

私の愛する兄弟たち、覚えて

 

 おいてください。皆が、人の

 

 言うことに進んで耳を傾ける

 

 べきです。すぐに話したり、

 

 すぐに怒ったりしては

 

 なりません。

 

(新世界訳聖書:

 

    ヤコブ1章19節)

 

 

私の兄弟たち、皆さんは栄光に

 

 輝く主イエス・キリストに信仰

 

 を持っているはずなのに、

 

 えこひいきをしている

 

 ですか。

 

(新世界訳聖書:

 

      ヤコブ2章1節)

 

 

 また、2章全体を見てみると、

 

困窮している人々に憐れみを

 

示さない、口先だけで

 

「信じた。」と言っている人々の

 

姿が書かれ、それをヤコブが

 

厳しく非難しています。

 

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 この箇所は、「信仰にはその

 

結果として行いが伴い、行いの

 

伴わない、口先だけの信仰は、真

 

の信仰ではない。」ということ

 

述べているもので、行いが救いの

 

条件だということを語ったもの

 

ではないのです。

  

 これらのことから、救いは、

 

行いによらず、ただ信仰のみに

 

よるのだと聖書が語っていること

 

が分かります。

 

 

 どうすれば救われるのかという

 

ことは、私たち人間にとって

 

最重要事項です。

 

 どうか、聖書を開き、救いに

 

ついて聖書がどのように語って

 

いるのか、ご自身の目で是非

 

ご確認くださいますようお勧め

 

いたします。

 

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