救いに行いは必要か

 s_60a2315eaf1c1711268c0a50e59c3e7c.jpg

 

 

 エホバの証人では「救われる(楽園に入る)には、キリストに

 

対する信仰だけでなく、良い行いが必要です。良い行いを

 

たくさんすれば、神様がその人に目を留めてくださり、地上の

 

楽園に入れてくださいます。また、さらに良い行いに励み、

 

神様が目を留めてくださる人は、14万4千人に選ばれ、天の

 

楽園へ行けます。だから良い行い(聖書の学び、伝道活動など)

 

に励みましょう。」と教わります。

 

thBG2Q3ULD.jpg

 

 確かに良い行いはすばらしいもののように見えますが、

 

果たして、聖書は、行いを救いの条件として語っているの

 

でしょうか?

 

 聖書を見ていきたいと思います。

 

(以下、エホバの証人が使っている「新世界訳聖書」から

 

見ていきます。通常のキリスト教の教会では「新改訳聖書」

 

使っています。

 

 

 

 さて、聖書をよく見てみると、次の聖句が記されています。

 

 

 

 『罪人を正しいと認める神に信仰を持つ人は、行いが

 

なくても、信仰のゆえに正しいと見なされます

 

(新世界訳聖書:ローマ4章5節)

 

 

 

 この箇所では、救い(神様から正しいとみなされること)は、

 

行いによらず、信仰によると語っています。

 

 さらに、聖書は以下のとおり述べています。

 

 

 

 この惜しみない親切のおかげで、皆さんは信仰のゆえに

 

救われました。この救いは皆さん自身によるものではなく、

 

神からの贈り物です。自分の行いによるものでは

 

ありませんから、誰も誇ることはできません。』

 

(新世界訳聖書:エフェソス2章8、9節)

 

 

 

 「惜しみない親切」とは、神様の御業のことで、

 

イエス・キリストの贖いの死のことです。

 

 

 神様は、罪人である私たち人間のために御子イエス・キリスト

 

をこの世に遣わされ、イエス・キリストは私たちの罪の贖いの

 

ために、死なれ、よみがえられました。

 

 

 s_cross-211992_1920.jpg

 

 

 この箇所では、このイエス・キリストの贖いの死と復活を

 

「信じる」ならば救われること、また、この「救い」は神様から

 

の贈り物であり、私たち人間の行いは一切関係ないのだという

 

ことを語っています。

 

 

 

 以上2つの聖句を挙げましたが、その他の多くの聖句

 

(聖書全体で約100箇所)も、「救いは信仰による。」という

 

ことを述べているのです。

 

 例えば次の聖句などです。

 

 

 

しかし、彼は自分を受け入れた人全てに、神の子供となる権利

 

を与えた。その人たちが彼の名に信仰を抱いていたからで

 

ある』(新世界訳聖書:ヨハネの福音書1章12節)

 

 

 

神は、自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。

 

そのようにして、独り子に信仰を抱く人が皆、滅ぼされないで

 

永遠の命を受けられるようにしました。神が自分の子を世に

 

遣わしたのは、彼が世を断罪するためではなく、世が彼を

 

通して救われるためです。彼に信仰を抱く人は裁かれません。

 

信仰を抱かない人はすでに裁かれています。その人は、神の

 

独り子の名に信仰を抱いていないからです。

 

(新世界訳聖書:ヨハネの福音書3章16節~18節)

 

 

 

子に信仰を抱く人は永遠の命を受ける。子に従わない人は

 

命を得ず、神の憤りがその人の上にとどまる。

 

(新世界訳聖書:ヨハネの福音書3章36節)

 

 

 

惜しみない親切によって選ばれるのですから、もはや行い

 

のゆえに選ばれるのではありません。行いのゆえに

 

選ばれるとしたら、惜しみない親切は惜しみない親切では

 

なくなってしまいます。

 

(新世界訳聖書:ローマ11章6節)

 

 

 

神は私たちを救ってくださり、招いて聖なる者として

 

くださいましたが、それは私たちの行いのゆえではなく、

 

ご自分の目的と惜しみない親切のゆえです。その親切は、

 

はるか昔にキリスト・イエスと関連して私たちに

 

示されました。』(新世界訳聖書:Ⅱテモテ1章9節)

 

 

 yjimageWTWB0G0U.jpg

 

 また、「救われるには行いが必要」であるということを

 

突き詰めて考えてみますと、一体どれほどの行いをしなければ

 

ならないのでしょう。

 

 例えば、1日5時間の伝道が必要なのでしょうか?

 

もっと必要かもしれません。

 

 では、1日10時間の伝道が必要でしょうか?

 

まだ不十分かもしれません。

 

 では、1日24時間の伝道が必要でしょうか?

 

人間には不可能です。しかし、これほどしなければいけない

 

のかもしれません。

 

 結局のところ、どこまですれば良いのか、きりがありません。

 

 しかも、どれだけやっても、「これで大丈夫だ。」と確信

 

できません。

 

「もしかしたら、足りないのかもしれない・・」という不安を

 

抱え続けることになります。

 

 果たして、聖書は、救いをこのような不安定なものだと述べて

 

いるのでしょうか?

 

pose_atama_kakaeru_man.png 

 

さて、エホバの証人の方も認めているように、聖書は神様の

 

ことば(Ⅱテモテ3章16節)ですので、聖書に、誤りや矛盾は

 

有り得ません。聖書に書かれてあることを、神のことばとして、

 

真摯に受け止める必要があります。

 

 聖書中に、「救いは信仰による。」と述べている聖句が多く

 

ありますので、救いについて考えるときに、これらの聖句を考慮

 

するべきではないでしょうか?行いを救いの条件として加える

 

ことは、果たして正しいことなのでしょうか?

 

 

 

 なお、エホバの証人では、ヤコブの手紙2章24節、26節を

 

根拠として、「救いには行いが必要である。」と学びます。

 

 

 

『人は行動によって、正しいと認められるのです。信仰だけで

 

認められるのではありません。』

 

(新世界訳聖書:ヤコブ2章24節)

 

『生命力のないからだが死んでいるのと同じように、行動が

 

伴わない信仰も死んでいるのです。』

 

          (新世界訳聖書:ヤコブ2章26節)

 

 

 

 確かに、これらの箇所を見ると、救われるには行いが必要

 

なのではないかと思うかもしれません。

 

 しかし、このヤコブの手紙を良く見てみると、これが、

 

救われた、クリスチャンに向けて書かれたものであり、救いの

 

条件について記したものではないことが分かります。

 

(手紙の中で、ヤコブは何度も「私の兄弟たち~」と

 

書いています。)

 

 

 

私の兄弟たち、さまざまな試練に遭う時、それを喜ばしい

 

ことと考えましょう。』(新世界訳聖書:ヤコブ1章2節)

 

私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはなりません。

 

(新世界訳聖書:ヤコブ1章16節)

 

私の愛する兄弟たち、覚えておいてください。皆が、人の言う

 

ことに進んで耳を傾けるべきです。すぐに話したり、すぐに

 

怒ったりしてはなりません。

 

(新世界訳聖書:ヤコブ1章19節)

 

私の兄弟たち、皆さんは栄光に輝く主イエス・キリストに

 

信仰を持っているはずなのに、えこひいきをしている

 

のですか。』(新世界訳聖書:ヤコブ2章1節)

 

 

 

 そして、2章全体を見てみると、困窮している人々に憐れみを

 

示さない、口先だけで「信じた。」と言っている人々の姿が

 

書かれ、それをヤコブが厳しく非難しています。

 

222.png無題1.png

 

 この箇所は、「信仰にはその結果として行いが伴い、行いの

 

伴わない、口先だけの信仰は、真の信仰ではない。」ということ

 

を述べているもので、行いが救いの条件だということを語った

 

ものではないのです。

 

 

 

 これらのことから、救いは、行いによらず、ただ信仰のみに

 

よるのだと聖書が語っていることが分かります。

 

 どうすれば救われるのかということは、私たち人間にとって

 

最重要事項です。

 

 どうか、聖書を開き、救いについて聖書がどのように語って

 

いるのか、ご自身の目で是非ご確認くださいますよう

 

お勧めいたします。

 

s_sunshine-.jpg