何が同じで何が違う・・・・・?

 

 

 

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 私たちクリスチャンは、この世界を造られた本当の神様がおられ

 

ることを信じています。

 

 また、『聖書』が、唯一まことの神様が人に与えてくださった

 

もの、神のみことばであると信じています。

 

 

 おそらく、ここまでのことは、エホバの証人の方たちも私たちク

 

リスチャンも、さほど変わらないのではないでしょうか?

 

 

 そして、聖書が神のみことばであるならば、聖書に記されている

 

通り、聖書に何かを付け加えても、減らしてもならない人の私的

 

解釈をしてはならないということになります。

 

 

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「わたしは、すべてこの巻き物の預言の言葉を聞く者に証し

 

する。

 

 これらのことに付け加える者がいれば、神はこの巻き物に

 

書かれている災厄をその者に加えるであろう。」

 

          (新世界訳聖書 啓示22章18節)

 

 

 

「なぜなら、あなた方はまずこのことを知っているからです。

 

つまり、聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないとい

 

うことです。」(新世界訳聖書 第Ⅱペテロ1章20節)

 

 

 

 しかし、エホバの証人の方が信じておられることと、クリス

 

チャンが信じてることには、大きな違いがあります。

 

 その一つに、「イエス・キリストが何者か」ということが挙げら

 

れます。

 

 

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エホバの証人の方は、イエス・キリストは、父なる神の最初の

 

被造物」

 

 もっと詳しく言えば、御使い(天使)の頭」であると語ってい

 

ます。

 

 ところが、私たちクリスチャンは、イエス・キリストは「真の

 

、エホバの証人の中でいうところの「エホバであると信じて

 

います。

 

  

 なぜ、エホバの証人の方も、クリスチャンも、聖書は神のことば

 

であると認識しているにも関わらず、信じていることに大きな違い

 

が生まれているのでしょうか?

  

 それには、いくつかの理由があります。

 

 

 

▶まず第一に、クリスチャンが語っている「三位一体」(この言葉

 

自体は聖書には出てきません)と、エホバの証人の方が語っている

 

「三位一体」の内容が、違っているからです。

 

 

 

 エホバの証人の方は、三位一体を以下のように理解されていると

 

聞いています。

 

 

「神様があるときには父になり、あるときには聖霊になり、また

 

あるときにはイエス・キリストになっている…。」

 

 

 このように考えておられるのではないでしょうか?

 

 

 

 しかし、私たちクリスチャンが語っている三位一体論は、これと

 

は異なっています。

 

 エホバの証人の方たちが理解されている三位一体は「様態論」

 

という異端の考えです。

 

 

 クリスチャンの語っている三位一体は、

 

「唯一の真の神には三つのご人格(三位)があり、それが、父と

 

子と聖霊である」

 

 ということです。

  

 

 つまり、神の三つの「部分ではなく」、唯一の神の内にある「三

 

つの人格的な区分」ということです。しかも、人格的な区別はあり

 

ますが、父、子、聖霊は同じ性質と属性を備えておられます。

 

 そして、それぞれが独立し、自存するのではなく、いつも一つの

 

思いと目的を持って、協同されるのです。

 

 ですから、本当の意味で、神は一体です。

 

 

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                    (三位一体の説明図)

 

 

 

▶このことをご理解頂ければ、色々な話は、とても分かり易くなる

 

と思います。

 

(以前エホバの証人の方と話した際に、この三位一体について、そ

 

れぞれが別のことを言っていることに気づかなかったばかりに、数

 

時間を無駄にしてしまったことがあります。)

 

 

 

 もし、エホバの証人の方が考えている三位一体であるならば、ヨ

 

ネの福音書17章に書いてあるイエス・キリストの祈りはまった

 

く矛盾していることになります。

 

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  しかし、キリスト教会で語っている三位一体で考えるならば、何

 

もおかしいところはありません。

 

 ですから、まず、そのような共通認識を持って読み進めて頂けれ

 

ばと思います。

 

 

 

▶さて、イエス・キリストは、何者なのでしょうか?

 

 私たちは、イエス・キリストが、すべてのものを創造された

 

方」あると信じています。

 

 

 

「あなたを買い戻す方、あなたを腹(の時)から形造った方、エ

 

ホバはこのように言われた。『わたし、エホバは、すべてのこと

 

を行い、独りで天を張り伸ばし、地を張り広げている。だれがわ

 

たしと共にいたか』」(新世界訳聖書 イザヤ書44章24節

 

  

「すべてのものは彼(キリスト)を通して存在するようになり、

 

彼を離れて存在するようになったものは一つもない。彼によっ

 

て存在するようになったもの」

 

      (新世界訳聖書 ヨハネの福音書1章3節)

 

 

 

「彼(イエス)は世にいたのであり、世は彼を通して存在するよ

 

になったのに、世は彼を知らなかった」

 

        (新世界訳聖書 ヨハネの福音書1章10節)

 

  

「すべてのものは(神)から、また(神)により、そして(神)

 

ためにあるからです。(神)に栄光が永久にありますように」

 

       (新世界訳聖書 ローマ人への手紙11章36節)

 

 

 

 これらの聖書の御言葉には、イエス・キリストがこの世界を造ら

 

たということ。

 

 また、神様がそれをされたのであるということが書いてあり

 

ます。

 

 しかし、ある方はコロサイ人への手紙1章15、16節を持ち出

 

て、「イエス・キリストは神ではない。」と言われるかもしれま

 

せん。

 

 

 

「彼(イエス)は見えない神の像であって、全創造物の初子

 

です。

 

なぜなら、(他の)すべてのものは、天においても地におい

 

ても、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ

 

政府であれ権威であれ、彼によって創造されたからです。

 

(他の)すべてのものは彼を通して、また彼のために創造さ

 

れているのです」

 

(新世界訳聖書 コロサイ人への手紙1章15,16節)

 

 

 

 そこには、「他の」という言葉が書いてありますが、実は、この

 

「他の」とう言葉は、元々のギリシャ語聖書の本文にはありま

 

せん。

 

 そのことは、エホバの証人の方が使っておられる、新世界訳聖書

 

でも認めらていて、わざわざ「他の」ということばに( )を付け

 

ています。

 

 新世界訳聖書では、「『読む人がより理解できるように』とい

 

う配慮の元、のように訳した」とあるのですが、この言葉が入

 

ると御言葉の意味が全く変わってしまいます。

 

 

 

 この聖書箇所を要約したものを、クリスチャンの用いる聖書

 

(新改訳、共同訳、口語訳、など)のものAと、エホバの証人の

 

方の用いる新世界訳(上記の文)の要約をBとすると以下のよう

 

になります。

 

 

A   すべてのものは、彼(イエス)によって創造された。

 

                (一般的なキリスト教会)

 

 

B 他のすべてのものは、彼(イエス)によって創造された。

 

                 (エホバの証人の方)

 

 

 

 「他の」ということばがあるゆえに、「誰によって、何が造られ

 

たのか?が、あいまいになり、意味が違ってきてしまうのです。

 

 

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▶では、ここで、もう一度、最初に戻って考えてみましょう。

 

 最初に、エホバの証人の方も、私たちクリスチャンも、「聖書

 

は、神様の御言葉であり、神様が人に与えた本である。また、私的

 

解釈をしてはならないものである・・・。」ということが記されて

 

いることを確認しました。

 

 

 

 ですから、聖書に、御言葉の意味が変わるような付け加えを行う

 

ことは、絶対にあってはならないことです。

 

 これは、先ほど述べた、聖書が禁じている「聖書の私的解釈」に

 

なってしまいます。

 

 

 

「なぜなら、あなた方はまずこのことを知っているからです。

 

つまり、聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないと

 

いうことです。預言はどんな時にも人間の意志によってもたら

 

されたものではなく、人が聖霊に導かれつつ、神によって語っ

 

たものだからです。」

 

      (新世界訳聖書 第Ⅱペテロ1章20、21節)

 

 

 

 ですから、そのようにして付け加えられた言葉を除いて、コロサ

 

人の手紙御言葉をそのまま読めば、イザヤ書も、ヨハネの福音

 

も、ローマ人への手も、コロサイ人への手紙も、イエス・

 

キリストがこの世界を造られた」と書いてあることが明らかにな

 

るのです。

 

 

 

 

 

 特に、イザヤ書44章24節は、神がご自身で、天と地を造られ

 

たと書いてります。

 

 また、ヨハネの福音書は、それが「イエス・キリスト」であると

 

書いてあります。さらに、コロサイ人への手紙もそのことを主張し

 

ているのです。

 

 

 

 

 

 

 

▶さて、もう一点、考えてみたいことがあります。

 

 それは救い主とは、どのような方か?」ということです。

 

 

 

「わたしが―わたしがエホバであり、わたしのほかに救う者は

 

いない。」(新世界訳聖書 イザヤ書43章11節)

 

 

「それはわたし、エホバではないか。(わたし)を別にしてほ

 

かに神はいない。義なる神、救い主はわたしを別にしては

 

いない」(新世界訳聖書 イザヤ書45章21節)

 

 

 

 この個所をみるならば、「エホバ以外に救い主はいない」と書い

 

あります。

 

 さて、新約聖書を開けてみましょう。

 

 

 

「わたしたちの救い主キリスト・イエス」

 

         (新世界訳聖書 テトスへの手紙1章4節)

 

 

 

「わたしたちの救い主なるイエス・キリスト」

 

         (新世界訳聖書 テトスへの手紙3章6節)

 

 

 

「さらに、ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えら

 

れ、わたしたちがそれによって救いを得るべき名は、天の下にほ

 

かにないからです。」(新世界訳聖書 使徒の働き4章12節)

 

 

 

「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義により、わたし

 

たちと同じ特権としての信仰を得ている人々へ」

 

       (新世界訳聖書 第Ⅱペテロの手紙1章1節)

 

 

 

 これらの御言葉をぜひ、見比べてみてください。

 

 

 

▶明らかに新約聖書では「イエス・キリストが救い主である」

 

語っています。

 

 また、同時に、旧約聖書では「エホバのみが救い主である」と語

 

っているのです。

 

 聖書は、間違ったことを言っているのでしょうか?

 

 聖書には、矛盾があるのでしょうか?

 

 

 

 絶対にそのようなことはありません。

 

 私たちには、神様からの言葉である聖書を、そのまま受け入れる

 

責任があるのです。

 

 

「エホバのみが 救い主」

 

 

「イエス・キリストが 救い主」

 

 

 それは、イエス・キリストがエホバなる神である」ことをはっ

 

きりと証明しているのです。

 

 

 さて、この個所で引用した聖書の御言葉は、全て新世界訳聖書を

 

いています。

 

 

 

 ぜひ、あなたの聖書を開いて、この個所で述べてあることが、果

 

たして本当なのかどうかをべレアにいた人々(使徒の働き17章)

 

のようにお調べいただければと思います。

 

 

 

 

 

 

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