牧師のあかし
私が初めて教会に行ったのは、18才の春のことでした。
私は進学のために、愛媛県から上阪したのですが、大阪にいる私
の伯母が、クリスチャンだったのです。(私は、その時まで伯母の
信仰について知りませんでした。)
私は、そこで初めて 聖書からのメッセージを聞きました。
しかし、私は、伯母の言うことが受け入れられず、「よくこんな
ことを信じているなあ。」と感じたのを覚えています。
それから私は、大阪で学生として生活していたのですが、いつも
週末は、叔母の家に行き、お世話になっていました。
叔母は、クリスチャンなので、毎週日曜日には 礼拝に行きます。
私も、世話になっているという意識から、義理で教会の礼拝に行
くようになりましたが、教会で語られているメッセージは、いつも
同じでした。
「神がおられる・・・。人間には罪がある・・・。死後、神からの
裁きがある・・・。しかし、イエス・キリストを信じる者は救わ
れる・・・。」
これが、いつも教会で語られるメッセージでした。
私は、その頃、「神など存在しない、人間は猿から進化してでき
たのだ・・・。」と信じていましたから、教会に行く度にクリス
チャンと議論をしていたのを覚えています。
私は当時、進化論に絶対の自信を持っており、「一つクリス
チャンに科学というものを教えてやろう!」と、傲慢にも思ってい
ました。
進化論は、人間は偶然勝手にできたのだと教えており、そして、
偶然に、また、勝手に存在しているが故に、人間には、人生の目的
などは存在しないとも主張しています。
ですから、人間はどのように生きようと自由であり、善悪の区別
など、究極的には存在しないという結論に達するのです。
私もそのことをよく承知しており、信じていました。
また、私は当時、「死」というものを大変恐れていました。
それは「死後の世界がある」 と思っていたからではなく、進化
論の考え通り、生存競争に勝ちたい、この社会の中で、また、人
間として他の人々に勝ちたいという願いからでした。
考えると、居ても立ってもいられない気持ちになったことを覚えて
います。
私にとって生きる意味、また勝利とは(かなり極端な考えですが)
自分の名前を歴史に残すことに他ならず、その他の人生の意味を見
いだすことはできませんでした。
ですから、まだ自分は生きている証をしていない、こんな状況で
死ぬわけにはいかないという思いでいっぱいだったのです。
こういう精神状態であったので、その考えを根底から覆す、神の
存在など全く信じられませんでした。
しかし、クリスチャンと話をしながら、果たして自分の信じてい
ることが正しいのか、と疑問を抱くようになりました。
クリスチャンの主張には筋が通っていました。彼は時計を例に出
して、「時計は偶然勝手にはできない」と語り始めました。
時計のような複雑なものが勝手にできると考えることは、精神が
おかしくなければできません。
私もそのことは認めざるを得ませんでした。
彼はまだ続けて「この時計と遠藤君の肉体とはどちらの方が複雑
だろうか。」と聞いてきました。
私はこの質問に対して、答えることができませんでした。
なぜなら、偶然勝手に人間ができたとしたら、あまりにもその構
造が複雑すぎるからです。
「人体はひとつの小宇宙である。」とある人が言いましたが、そ
れは確かによく事実を表しています。
人体の精巧にできた仕組みについて考えれてみれば、このような
ものが、偶然勝手にできると考えることは、考え難いこと。
そして、時計を造った「造り主」のいることが、当然であるよう
に、私たち人間を造った造り主が、当然、存在しなければならない
のです。
私は、続けて話を聞いているうちに、この世界を造られた創造主
である神様がおられるということに、次第に気付かされていき、ク
リスチャンの言うことには確かに根拠があり、「宗教」をしている
わけではないことも知りました。
私はそれから三ヶ月後に神様がおられることを認めました。
しかし、しばらくは、自分のうちに罪があり、その罪の裁きを受
けなければならないということを、はっきりと理解していなかった
のですが、神様は、教会でのメッセージを通して、私自身の罪深さ
を教えてくださいました。
「罪」というと、 私たちは、警察に捕らえられるような犯罪の
ことを思い浮かべます。
しかし、神様の言っておられる罪は、そういうものだけではな
く、造り主である神様を無視すること、人の手で作られたものを
神として拝むことや、嘘、ねたみ、悪口、心の中で思う悪い考え
でも、それが罪であると聖書には記されています。
私は、本当に神様がおられるならば、確かに、人間は裁きを受け
なければならないことを知ることができました。
それが、事実であるならば、これはとても厳粛なことです。
そして、もしも、聖書が裁きしか語っていないとしたら、私たちに
残されたものは、絶望しかありません。
しかし、聖書には、すばらしい救いの約束が書かれてあり
ました。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに 世を愛された。
それは 御子(イエス・キリスト)を 信じる者が、一人として滅びること
なく、永遠のいのちを持つためである。』
( 聖書 ヨハネ3章16節 )
神の子である イエス・キリストが、私たちの罪をすべて
背負い、私たちの身代わりに十字架に架かり、死んでよみがえら
れたこと。
イエス・キリストの十字架は、自分のためであったと信じる者
は、罪がゆるされ、死後、さばきを受けることがなく、地獄から
救われ永遠のいのちを持ち、天国に行けるということ。
私は、きよく正しいまことの神様の前に、自分が罪人であること
を認め、イエス・キリストを信じ受け入れました。
恵み深い神様は、神などいないと考えていた私にも、神様を知る
ことができるよう導きを与えて下さいました。
私は、この神様に心から感謝しています。