十字架上のキリスト2
§ 天国に行く資格?
さて、この犯罪人のことを、もう一度、考えてみましょう。
彼には、天国に行く資格はあったのでしょうか?
彼は、何か特別な良いこと、天国に行けるにふさわしいほどの良い行いをし
たのでしょうか?
そうではありません。
彼は、どんな良い業も行っていません。
彼は、強盗行為を行い最後に死刑判決を受け、十字架につけられてしまうほ
どの悪人であったのです。
当然ですが、十字架につけられたら最後、降りることはできません。
十字架から降ろされるのは、死んだ後の死体であると決められていたから
です。
ですから、彼は、今まで酷い目に合わせてきた人達に謝ることや、強盗に入
った家の人へ盗んだ金品を返すこともできません。
犯罪人の彼は、十字架の上で自分のしたことをいくら悔いても、それを償う
方法は、もはや何も無かったのでした。
つまり、彼は十字架につけられる前には、何の良いこともできず、十字架に
つけられた後にも、そのような善行を行うことができなかったのです。
また、十字架上で、もう一人の犯罪人とともに、イエス・キリストに向かっ
てほぼ3時間に渡り、悪口を言い続けたのです。
彼は、良い人だったのでしょうか?
全くそうではありません。
では、なぜ良いことのできない人間、何も正しいことのできなかった人間に
対して、イエス・キリストは、『~パラダイス(天国)にいる』と
言われたのでしょうか?
それは、彼が ‶イエス・キリストを 自分の救い主として信じた〟ただ、こ
のことによるのです。
●ヨハネの福音書3章16節 にはこのように書いてあります。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。』
また、その他にも、聖書の多くの箇所で、
~イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持つ~と書かれています。
●ヨハネの福音書3章18節 には
『御子を信じる者はさばかれない。
信じない者はすでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じなかったからである。』
●ヨハネの福音書3章15節 には
『それは、信じる者がみな、
人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つためです。』
●ヨハネの福音書3章36節前半には、
『御子を信じる者は永遠のいのちを持っている』
と書いてあります。
§ 行い+信仰=救い?
聖書は、「良い行い と キリストに対する信仰によって救われる 」とは
言っていません。
聖書は、「御子イエス・キリストを 信じることによって救われる」 と非常
に多くの箇所で一貫して語っているのです。
また、単純に、イエス・キリストを「信じる」ことは、
「神に信仰を働かせる」ことと同じではありません。
「神に信仰を働かせる」とするのであれば 「働かせる」という行いをする
のは、人間の側であり、「働かせていないのであれば救われない ・・・
働かせ方が足りないから、救われない ・・・。」 となってしまいます。
これでは、私たちが努力して信仰を保たなければ、神様の救いに預かること
はできないということと同じになってしまいます。
聖書は
『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物(プレゼント)です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』
(聖書エペソ2章8~9節)
と記しています。
§ 善行と救い
また、私たちは、「良い業を行えば救われる」ということを聞くことがあり
ます。
しかし、もしも、救いに良い業が必要であるならば、
いったい、どれだけの良い業 をすればよいのでしょうか?
また、たとえその人が、自分で良い行いだと思っていても、神が本当に良い
と思っておられることを行ったといえるのでしょうか?
また、誰が判断するのでしょうか・・・?
どんなにたくさん良いことをしても、「自分は神様の御前に完全にできてい
る!」と確信をもって言うことができる人は、ただの一人もいないのです。
ですから、どんなにできている人であっても、「本当に、あなたは天国に行
けるのですか?」と聞かれたときには、「行けると思うんだけど・・・・・・
はっきりとは分かりません。確信が持てません・・・・。」としか言いようが
ないです。
§ 信じるだけで救われる!
このように、神の恵みにより、キリストの十字架の死と復活により、その贖
いの死を自分の罪のためであると信じるだけで、私たちは天国に行けるの
です。
§ おわりに・・
もう一度ふり返って考えてみましょう。
十字架上の、あの犯罪人が、自分のしてきた悪業・罪を償うには、もう遅す
ぎる状態であるにもかかわらず
『~あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』
とイエス・キリストから言われました。
この出来事はどうしようもない罪人でも、イエス・キリストを信じるだけで
救われることを明確に表すものとして、聖書に記されているのです。
そして、聖書は、今生きている私たちに書かれているということです。
ぜひ、神様の下さる救いについて、お考えくださいますようにお勧め
致します。
『~渇くものは来なさい。
いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。』
(聖書 黙示録22章17節後半)

